わが恩人である田辺聖子は、芥川賞であるが、後に直木賞の選考委員になっている。境界はあいまい、の典型的な例といってよいだろう。純文学系の雑誌(すばる)からスタートした我は、当然ながら芥川賞のラインだった。当時、すばる文学賞の受賞者(我は佳作)、又吉栄喜が後に芥川賞を受けるが、それが順当な進路といえる。
ところが、スタート地点がそういう文芸誌であっても、本質的にはどうなのかという話になると、我の場合、かなり大衆的なベクトルをはじめから持っていたように思う。我の受賞に、黒井千次(純文学しか書かない)が反対で、三浦哲雄が推したという事実がおもしろい。
三浦さんは芥川賞の受賞者だが、大衆に振れた作品(『忍ぶ川』)での受賞であったことを思えば、我を推してくれた理由もみえてくる。つまり、『海を越えた者たち』に、私的作品とはいえ、大衆に受けるはずの何かをみていたのだ。つまりは、作品の傾向、感性において、共感するところがあったにちがいない。
とらわれてはいけない、ということがここで一ついえるだろう。偏りはいけない、ともいえるか。人間というものの多様性、どちらにも振れてみせる多面性というのが、およその人にはある。が、これを受容して、自由になれない人がいるものだ。我の場合も、デビューしたときから何年間かは、芥川賞がほしい、などと思ったものだった。
ほしいと思っても叶わない、思えば思うほど遠くなる、と先ほど書いたとおりだった。芥川賞どころか、このまま消えてしまう恐れのほうが現実的だったことも書いた。が、我には幸いにして「幅」というものがあった。人としての振幅の大きさが、こだわりから解放される機会を与えてくれたのだったか。
インドシナ難民の話やたこ八郎物語(『昭和のチャンプ』)を書いたこともそうだが、その後、おもしろい裁判がある、という知り合いの弁護士のセリフに飛びついていったことからして、本質的には芥川賞ではなかった。膨大な裁判記録(壮絶なレイプ裁判だった)を読み解いて、それを小説(『漂流裁判』でサントリーミステリー大賞受賞かつ直木賞候補となる)に仕立てるには、他に食うための仕事をもっていてはムリだと判断し、親に援助を依頼したこともすでに述べたと思う。
方や、直木賞のほうだが、こちらはいわゆる「大衆」にわかりやすい「小説」であるから、あまりやっかいではない。選考委員の意見も従って、いいものはいいということで一致することが多い。
かつて、我が三田誠広とやっていた自治労の文芸賞で、見解が異なったことはないと書いたと思うが、候補になる作品のほとんどが、わかりやすい小説だった。「大衆小説」とは、人に読んでもらうことを意識した小説、ともいえるだろうか。だから、自分本位の、自分にしかわからない言葉づかい、表現、というのが非常に少ない。
むろん、表現というものには工夫をこらすわけだが、わけがわからない抽象的な言い回しとか、わざとわからなくしているかのような、例えば大江健三郎のように(ノーベル賞作家だが)、さっぱりわからない表現というものがない。
人にはわからないということが、不思議なことに、文学におけるプレステージになり得ることについては、評論家なるものの存在と関わってくる。ある評論家によると、小説家なんてバカの集団、ということになるようだが(バカを評論しているお前はもっとバカだと言い返したくなるのをこらえたものだが)、この評論家なる人たちは、およそわかりやすい小説は扱わない。
一般にはわかりづらい小説を論じることに意味を見出す人たちなので、むろんそれだけでは食えないために、大学の講師になったり、中には助教授(まれに教授)の地位におさまる人もいる。あんなものは小説ではない、と、ある高名な評論家がこき下ろした作品が直木賞を受けたことがあるけれど、実によい例というべきだろうか。
とはいえ、わかりやすい小説を論じる評論家も少数ながら存在する。難解な小説を論じる人でも、幅広く大衆文学に目を向ける人もいるから、一概にいえないのだが。
要するに、小説なるものに境界を設けること自体、ムリな話なのかもしれない。たまたま菊池寛が、芥川・直木賞を設定したことで、区別が意識されることになったけれども、その境界は時としてあいまいであること、作品によってはどちらの賞に入ってもいいようなものがあることは強調しておいてよいだろうか。
我が直木賞をもらったとき、知り合いの中に、次は芥川賞ですね、頑張ってください、といった人がいる。事情通の間では、これは笑い話である。どちらかをもらえば、それでおしまい。両方はゼッタイにもらえない。これまた、二つの賞が文藝春秋の設定であることや、それぞれが文学上の意味合いを異にしながら並列させていることを御存じないために起こる誤解だ。
はじめは(菊池寛が設けたとき)、両方ともに新人賞だったことは述べたと思う。一応、芥川賞が純文学、直木賞が大衆文学、という区別はあって、およそその通りの感があるものの、境界はあいまいである。わけがわからない文学が芥川賞、よくわかる(わかりやすい)文学が直木賞、と昨今はいってもいいかもしれない。
もともと純文学とは私小説であるから、その人以外にはよくわからないものであって、それはしかたがないことなのだ。人にはよくわからないものを人が(選考委員が)読んで賞に値するかどうかを決めるのだから、これは大変だ。非常にやっかいな仕事を芥川賞の関係者はやっているわけだが、これが賞です、と差し出されたものを、これまた人(一般大衆)が読んでどういう感想をもつかというと、何だ、これは、これが小説か、という恐ろしい印象をもってしまうことがあるのも道理なのである。
むろん、私小説のなかには歴代の名作が多々あって、一つの普遍性(多数を感動させる力)を獲得しているものもあるわけだけれど、そうではないものも多い。ために、これの評価は実にまちまちで、芥川賞の選考会もすんなりとはいかない。今回はなし、というのが従って多くなる。
芥川賞は、落とすことに熱心な選考委員が多い、といわれるが、それは違う、と我は思う。これが本当にいいのかどうか、賞に値するのかどうかがよくわからない作品が多いからではないか、というのが我の見方だ。ひょっとすると、書いた本人にもよくわかっていないのではないかという作品が候補になっていたりするのだから。
この賞がほしくてしかたがないモノ書きが全国に数知れず(文字通り数がわからないという意味で)いる。およそ小説というものを書いている人間はすべからくほしい、ほしいと思いながら日々デスクに向かっているはずだ。
ほしくないという変わった人(ヘソ曲がり)もたまにいて、もらう前から要らないと宣言したり、もらえるとわかってから断る人もいるが、いずれも例外、わが国の文学界に対して何らかの遺恨をもっているか、個人的な異見をもつ人にかぎられる。
では、どうすればこの二つの賞のうち、どちらかがもらえる(ふたつともはダメ)のか、というモンダイであるが、これはもう非常にむずかしい、といわねばならない。文章修業をして日本語がうまく書けるようになるほうがはるかにやさしい、といってしまってよいだろう。これほど複雑怪奇なゲームはないともいえるほど、その人の人生に奇跡なるものが起こらなければとれないものでもある。などといえば、ほしい人に絶望感を与えてしまうかもしれないが、絶望するほどの話ではないことも確かで、そのわけはいずれ述べる。
然り、ほしいなどとは本当は思わない方がよい。ほしいと思ってもらえるものでは決してないからだ。むしろ、ほしいといえばいうほど、遠ざかっていくものであるかもしれない。かの太宰治(だだいおさむ)ですら、ほしくてならなかった芥川賞をとれていない。
選考委員の川端康成先生(同賞については非常な力もちだったという)に、芥川賞をください、と便りを出したのは有名な話だが、第一回のそれは石川達三に行ってしまった。以来、機に恵まれず、若くして入水自殺してしまうわけだが、皮肉なもので、未だ命日(桜桃忌)にファンの列が絶えないのは賞を逃した男のほうだ。
もらえるはずの人が、ついに運に見放されてしまうこともあって、我の知るところでは北方謙三がそうだ。これまた皮肉にも、いまは直木賞の選考委員(十名のうち同賞をとっていないのは彼だけ)となっているが、もらえないからといって絶望することはない好例ともいえるだろうか。
今週は、お休みをいただく。というのも、13、14、15の三日間がタイ正月で、土曜、日曜にかかるため、16、17が振り替え休日。今年は従っていわばゴールデン正月となった。水かけ祭として知られるソンクラーンについては、わがブログ(当初の『地球塾』)でも紹介している。
といって、終わってしまうのは気が引けるので、当時のブログを少しだけ再現してからお休みにしたい。(写真:水かけに興じる子供たち バンコク)
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本来のタイ正月(トゥルート・タイ)は、陰暦にもとづき、旧年の陰暦4月下弦14日に始まって、新年の5月上弦1日に最終日を迎える。が、これは現チャクリ王朝、ラ―マ5世の時代、1889年(2432年)になって、年ごとの日にち変更をやめ、陰暦4月1日をタイ正月とすることが定められた。それが100年余りつづき、1941年(2484年)に至って、太陽暦の1月1日を世界標準に合わせて正月とする、との決定がなされた。
本来のタイ正月は、一年の最後(トゥルート)を新しい年を迎えるに当たって祝うもので、いわば年の暮れから新年を迎えるまでの行事だった。それとは別に、もう一つ、ほぼ時期を同じくして行われるソンクラーン祭というのがあって、昔は、タイ正月(太陰太陽暦)とソンクラーン祭(太陽暦)は時期がずれることがあっても別々に行われていた。が、国が近代化して人々が忙しくなり、そう度々休みにするわけにもいかないということで、本来のタイ正月とソンクラーン祭を一本化し、その代わりにもう一日おまけして、1月1日を新タイ正月とする、とされたのだった。
人々は従って、このソンクラーン祭が同時にタイの正式な正月であるとして祝っている。(1月1日は休日だが、年が明けたというだけで、ぜんぜん盛り上がらない。)
ソンクラーンというのは、通過する、移動して入っていく、という意のサンスクリット語が起源である。これは太陽暦にもとづいて決められており、毎年、4月13、14、15日の3日間。その語意のとおり、太陽が通過、移動して「12宮運行域」のうちのいずれかの「宮」に入っていく時期である。「宮」は「星座」と同義で、12の星座(牡羊座とか蠍座とか)がある。一つの星座、すなわち「宮」を出て別の「宮」へ入っていくまでの時間が一ヶ月。12宮をひと巡りすると、一年に相当する。
この太陽暦と、太陰太陽暦(「陰暦」と称す)の使い分けがみごとだ。我が国では明治以来、太陽暦に変わって、それまでの旧暦(この呼び方は日本のみで陰暦<天保暦>のこと)は、一部の行事を除いて使われなくなってしまったが、この国ではしっかりと仏教とともに息づいている。
つまり、人々の暮らしの中で、太陽だけでなく、月の巡りも忘れられていないのだ。むしろ、陰暦を刻む月のほうが大事にされている、とみてよいだろう。西暦より仏暦が庶民の間に根づいているように、それは生活のリズムの中に、慣習の中に、しっかりと組み込まれている。




(では、また来週)
話を本道に戻そう。
そういうわけで、我はモノ書きとして生きながらえることになった。大賞作品は、ドラマ化されることが決まっていたから、そのほうも楽しみだった。ドラマ化権は共催の朝日放送がもっていて、むろん原作はドラマの下敷きにすぎない。どのように料理されるかは、監督や脚本家の手にゆだねられる。
主演は、弁護士役が藤竜也、検事役が名取裕子だった。火野正平と紺野美佐子が被告と原告、そして、当時は女優に転向したばかりで実に若かった工藤夕貴が法律事務所の事務員役だった。ドラマの内容はともかく(もう忘れてしまった)、視聴率がなんと大阪27パーセント、東京26パーセントと、とんでもない数字となって、サントリーミステリー史上最高値を記録した。
本もまずまずの売れ行きで、初版五万部はすぐに消えて増刷となった。賞金より印税のほうがはるかに大きく、我のふところはさらにぽかぽかとして、いくら水割りをのんでも冷えなかった。
いまの我からは想像もつかない、まさに花の時代だった。その次の年(一九八九年<平成元年>)には、さらに大きな賞にたどり着き、いよいよ羽振りを増して、不死鳥とまでは思わなかったが、やはり節約、節電などは考えもしなかった。
直木賞、正式には、直木三十五賞という。
この賞の名はよく知られているが、実質のわかっていない人がほとんどだろうか。直木賞はどこの出版社設定の賞ですか。これに答えられる人は、小説好きの人でも五人に一人程度か。主催は日本文学振興会だが、これは文芸春秋ビルの中にある。
文芸春秋の創設者、菊池寛が一九三五年、作家・直木三十五の業績を記念して、新人とそれに相当する人に与える賞として、芥川賞(これはむろん芥川龍之介を記念)と共に設定した。終戦(敗戦)後の混乱がつづく間は中断されたが、四十九年に復活、いまに至っている。
NHK(日本放送協会)が他の賞は無視するのに、芥川・直木賞だけは報じることに不満を唱える人がいるけれど、その歴史をみれば、やむを得ないことではあるだろう。近年になって(といってもだいぶ経つけれど)、山本周五郎と三島由紀夫文学を記念して、新潮社が二つの賞を設定したころ、ある新潮の編集者が、うちは年に一度で本当にしんどい思いをしているのに、文春さんはそれを二度までやっていることが信じられない、頭が下がる思いだと、我との酒の席でいっていたが、おそらくそれが本音なのだろう。歴史と伝統がモノをいう世界であり、NHKの報道もその点に価値をおくがゆえにちがいない。
しかしながら、ここで改めてつらつら考えてみるに、我にもし、しっかり者のカミさんがいて、賞金をしめしめと蓄えて、我には日々の昼飯代とたばこ銭くらいしかよこさず、たまには女性と酒でも飲んでみようかと思っても叶わない、といった状況になっていたならば、おそらくモノ書きなどは廃業してサラリーマンに戻っていたにちがいない。不幸にして金はどんどん消えていったけれども、幸いにして使ったぶんがまたコヤシ、元手となってモノ書き稼業に役立っていたことは、ほとんど確かだ。
なので、後悔というのは当たらないのだけれど、それにしても使い過ぎたということは、それからしばらくつづく羽振りのいい時代、全体にいえることだった。もっとも、使い過ぎたというのは、いまが再びビンボウであるからいっているだけのことで、本が売れて印税がどんどん入ってくる状況にあったなら、過去はどうでもいいことなのだ。
あの頃、もう少し自粛して、ながく滞納している年金を払うなり、株を買っておくなり、定期預金にしておくなりすれば、今ごろはもっとラクな異国暮らしができていただろうに、というのが本音で、いささかの悔いは残るわけだが、しかし、おそらく人生というものにはある程度の悔いが付きものであろうことも、この歳になるとわかってくる。わが青春に悔いなし、とはいえてもわが人生に悔いなし、と言い切れる人はあまりいないのではないか。
米国だったか、九十歳を過ぎた長生き爺さんに、自分の人生に悔いが残るとすれば何か、というアンケートをとったところ、もっと冒険をしておけばよかった、というものが最多であったそうだが、皮肉な言い方をすれば、もっと冒険をしていれば九十歳を超えられなかったかもしれない。
人生とはおそらくそういうもので、我がもし、収入をしっかり預金して、それをチビチビと晩酌をするように小出しにしながら使う人間であったなら、はじめからモノ書きなどを目指しもしないだろうし、目指したところでモノになるはずがなかった、ということもまた確かであってみれば、ヤクザもんはヤクザとしてしか生きられないという現実をいさぎよく認めるほかないのだろう、とこの頃は思う。
それにしても暑い。猛暑の季節が到来して、我の頭は芯からとろけそうであるゆえ、文章もちょっとだらだらしてきたか?