緊急・特別エッセイ(一般公開)
(「実感! タイ暮らし」と「食べタイ料理・グルめぐり」は、とりあえず一週間ほどお休みさせていただきます。料金を支払っている方には申し訳ありませんが、進行中の緊急事態を鑑みてご容赦、ご了解ください。)
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カンボジアの闇体験と原子力

 あれは、一九八九(昭和六四)年の夏、七月のことだった。

 ある団体が定例としているカンボジアへの旅に参加して、しばらく現地に滞在したことがある。当時はまだポル・ポト派(民主カンボジア)がベトナムに後押しされたヘンサムリン政権と対抗しており、カンボジア西部のジャングル内にあるその拠点を訪ねたのだった。

 要注意は、地雷を踏まないことと蚊に刺されないことのふたつで、まるで悪鬼のごとく喧伝されているポト派については、実は親切でやさしい人たちであるから心配はいらないと聞いていた。後のほうはまったくその通りで、大虐殺の張本人とされた元外務大臣・イエン・サリなどは、夕食時、我のお皿にみずからの手で料理を取り分けてくれたものだ。

 彼らは要するにクメール民族主義者であり、侵略者ベトナムの脅威に立ち向かっていたのであって、その革命の途上で行き過ぎや失敗によって犠牲者は少なからず出したものの、自国民を意図的に大量に虐殺するなどという、宣伝されてきたような事実はないのだということを検証する旅でもあったから、彼ら幹部との直接の面談は大きな収穫だった。

 これについては、政権側のお膳立てで取材し、さまざま便宜をはかられたジャーナリストたちと、我が参加した団体に関係するジャーナリストたち(権力側ではないので貧しい)とが決定的に対立してきたわけだが、むろん声の大きいのは政権側であって、勝者の論理、言いたい放題がみごとにわが国民(のみならず世界の大多数)を洗脳し、定説としてまかりとおってきたことは周知の通りだ。

 それはともかく、そのポト派のゲストハウスに一泊したとき、ちょうど新月の夜だったか、それとも空が曇っていたのかは定かでないが(雨季だったのでたぶんこれが正しい)、夜のとばりが下りてからの暗さといったらなかった。これが漆黒の闇というものかと、それまでの人生で経験したことのない暗さにとまどい、長い夜を過ごすことの不安すらおぼえたものだ。建物自体は、丈夫なニッパ椰子で葺いた小屋(ニッパハウス)で、ベッドもまずまず快適だったから、おやすみを告げた後はぐっすりと眠ることができたのだが、一つだけ思いがけないことが起こった。

 夜中に一度目がさめて、トイレへ立とうとしたときのこと――。

 室内には小さなランプが点いていて、どうにか出口までは歩いていけた。ところが、木の扉を開けて一歩を踏み出そうとした瞬間、我の身体は凍りついた。暑い夜なのに凍りつくとは表現にモンダイがありそうだが、とにかくピクリとも動かなくなってしまったのだ。

 トイレの場所は教えられていた。ほんの二十メートルほど先、方角もおよそわかっている。が、眼前の闇が一歩たりとも踏み出すことを許さなかった。その怖さ、恐ろしさに茫然と立ちすくんだまま、用足しだけは(しないといけないので)扉のそばで、どこへ引っかけているのかもわからないまま果たした。放尿するあいだも、闇から何かが襲いかかってくるような気がして、寒くもないのに全身が震えていた。
2011.04.02 / Top↑
 子供のころ、わが家のトイレは戸外にあって、夜中に立っていくのがいやだった憶えがある。門灯はあったがうす暗く、少し離れるともう闇で、月の夜だけ山の端がうっすらとみえた。

 山裾にはお墓があって、火のタマが出ると姉たちにおどかされていたから、よけいに怖かった。が、それでも明かりがあるだけマシだった。怖々ながらもトイレに立つことができたのだから。

 だが、それから何十年も経って、いい大人になって(当時四十歳だったから、よい歳こいて、といったほうがよいか)、異国のジャングルではじめて本当の闇と出会い、その怖さに、すぐそばのトイレにも行けなかったとは、一体何たるザマであったか。

 しかし、さらにつらつら考えてみるに、その時その歳まで、日本人としての我は、本当の闇を知らなかったという、笑えない事実がシカとある。闇の怖さを知らずに育ち、まさに文明の象徴としての明るさを当たり前のように感じて過ごしてきた。電気というものが夜を照らし、闇を追放し、ためにその恐ろしさとは無縁の暮らしをつづけてきたのである。

 人々は日常、そのようなことに思いをいたすことなく、その必要もなく、ほしいままに明るさを享受し、何の疑問もおぼえることはなかった。快適な生活を保証するものとして、いわゆる電気製品なるものが次々と生み出され、普及していった。それはいまも留まることを知らない。

 ところで、カンボジアで闇の恐ろしさを体験する前、一九八〇年代に入ってしばらく経ってからだったと思うが、ある知り合いの女性が我に対して、こんなことをいってきた。彼女の夫君がこのほど東海村(といえば原子力研究のメッカとわかる)に勤務することになったのだが、いま原子力発電の是非をめぐって賛成派と反対派に分かれており、今後も議論がつづくことになる。(すでに東京電力の福島第一原発は稼動をはじめて十年余り経っていたが。)

 ついては、先生(我のこと)に賛成派を支持するようなモノを書いてもらえないだろうか。原子力発電のゼッタイの安全性(と彼女はいった)については夫が多くの資料を持っているし、取材をしてもらうこともできる。ぜひ、お願いしたい、とのことだった。
2011.04.04 / Top↑
 彼女の夫君は東大卒、原子力の専門家(原子力工学の設計部門であったようだ)として今後やっていく予定で、原発反対派が勝利すれば非常な打撃を受ける。これまでつづけてきた研究の成果、能力が生かせなくなってしまう。一人でも多くの人を賛成派につけたい、という気持ちであったようだ。

 これは、いわゆる「立場と都合」というもので、世にいくらでもある。科学者は、その研究が世の中にどのような影響を及ぼすものか、あるいはその成果が人を幸福にするのか不幸にするのかという問題とは別の次元で、みずからの欲求を満たそうとする。その立場を確保するには、都合のよい環境がなければならない。

 なかには、みずからの研究の成果が人類の幸福のために使われるのではなく、おそろしい悪魔の兵器に変わってしまったことを終生気にやんでいた人物もいる。物理学者、湯川秀樹(一九〇七~一九八一)などはそういう日本人の代表格か。

 それはともかく、知人女性からお願いをされたときの我は、その是非を判断するための知識もなければ、とくに意見を持っていたわけでもなく、ただ知り合いという関係では味方につく動機ともならず、そうだね、考えてみるけれども、とあいまいに答えて、それきりになった。

 その後、賛成派が勝利したことは周知の通りだ。是非をめぐる論争は、いうまでもなく安全性であり、地震国ニッポンでいかにそれを確保するかであったが、わが知人女性の夫たちは、万全の安全性を主張して反対派を押しきった。そこには、工業国としての経済成長最優先の論理がはたらいていた。安全さえ確保できれば、火力や水力よりはるかに多量の電力を供給できる。さらなる経済発展を実現するためにはどうしても必要、と結論づけられて、日本各地に次々と原子力発電所なるものが建設されていった。

 地方住民の建設反対、誘致反対の声が唯一の問題だったが、これまた町興しに有効という、自民党議員らの利権がからむ経済最優先の論理に押し切られてしまう。
2011.04.04 / Top↑
 そして、それから幾年月(わが国最初の原子炉は一九六六年東海村で稼動を開始)、二〇一一年三月一一日。3.11と後世まで記憶されるであろう出来事、東北地方太平洋沖大地震が起こる。

 かつて原子力推進派がゼッタイ安全を保証したはずの発電所がもろくも崩壊した。万全を期したはずの装置が驚異的な津波によって機能しなくなったことについて、想定外であったと東電ほか関係者たちは口にした。

「想定外」という都合のいい言葉が生まれたのは、近年のことだ。為政者や経済人が、みずからの至らなさ、誤りや偽りの言い訳として口にすることが流行した。ただの言い訳にもかかわらず、その言葉を吐くことによって、エクスキューズされる、許してもらえると思っているかのような気軽さは一体何だろう。平然と、それはしかたがなかったのだといわんばかりに口にする。

 何とも便利な日本語があったものだ。こういう事態を想定できなかったのは、当事者の能力に問題があったからであって、言い訳にすぎない言葉を吐いて開き直っている場合ではない。あなた方は、あらゆる事態に備えて、万全を期して、ゼッタイに安全であると保証して、原子力反対派を押し切ったのではなかったのか?

 安全性は、実は卓上の論にすぎなかった。プルトニウムの何たるかも知らない一般民衆は、立場上、そうならなければ都合のわるい人たちに、声の大きな権力側に、結果的にはだまされていたということだ。

 反対派をねじ伏せるための宣伝合戦は、マスコミを使ったものから各家庭へのポスティングまで、あるいは我のごとき一介のモノ書きまでを取り込もうと試みながら、展開されたのだった。
2011.04.05 / Top↑
 わが故郷に近い神戸のときもショックだった。当時、我はベトナムを取材中で、メコンデルタにいたのだったが、親族や知友の安否を気遣いながら手も足も出ない状況に苛立った。

 やっと連絡がとれたとき、神戸大学の学生だった我の姪は、倒壊したアパートの下敷きとなって暗い絶望的な時を過ごしていたところ、通りかかった人たちが瓦礫の中から女の足がのぞいているのを発見し、助け出してくれたのだったが、生死は紙一重の現実を体験した人たちの話にいたく感動したものだった。

 気の毒な話が山ほどある一方で、まだしもであったのは、地震災害の恐ろしさを身をもって体験したことで、生き残った人たちが新たな闘志をもって、あるいは人生観を変えて、復興への努力をなしえたことだったか。

 今回はしかし、その数倍の、まさにメガトン級の衝撃である。その理由は、災害の状況、被災者の数の多さもさることながら、やはり安全性を根底から、今度こそくつがえしてしまった原子力発電所の崩壊である。日本の戦後社会がはじめて経験する、未曾有の事態というしかない。

 いま異国にて、我は三十九年間を過ごした東京の夜の明るさを思い起こしている。まだ夜のとばりも下りない黄昏どきからネオンが灯り、真夜中を過ぎても明るさに変わりがなく、それこそ夜明けがくるまで、街は必要以上に明るかった。人々は暗さとは無縁の生活を送り、ありとあらゆる電気製品の恩恵にあずかりながら、それを快適な暮らしと信じて疑わなかった。

 しかしいま、明るい夜の街も便利な電気製品のある暮らしも、一歩間違えば大変な事態を招く原子力によって支えられていたことに、人々は否応なしに気づかされることになった。

 つくづく思う。東京の街は明るすぎた。どうしてあれほど明るくしたのか、明るくなってしまったのか。その答えは改めていう必要はないかもしれない。我こそは文明の勝利者とばかり、その欲のままに、キリのない経済発展を目指した結果にほかならない。足るを知らない経済大国ニッポンに、ついに訪れた、その傲慢さ、不遜さへのシッペ返し。

 少し遡ってみれば、勝ち目のない愚かな戦争を起こし、お国のためという名分の下に膨大な人命を犠牲にしたニッポンという国は、戦後、手ひどい敗戦の教訓やヒロシマ、ナガサキの恐ろしい体験をいともたやすく水に流し、またしてもお国のため、経済発展のためという大義をかざし、まずは公害によって多数の犠牲者を出すことからはじめて、多くの村々をダムの底に沈め、工業化と引き換えに農業をダメにし(食糧自給率を半分以下にまで落とし)、教育現場を競争社会と同次元の有様に貶めて、あげくの果てに能天気な役人天国と化し、国民の年金までをネコババするような国になってしまった、という事実をみれば、わが国の役人的体質そのものである電力会社が、国家を代表するといってもよいインフラ企業が、事と次第によってはヒロシマどころではない被害が出るという緊急事態に直面しながら、なお責任の回避と事実の非公開(現在の事故状況だけではなく)をなしてはばからないのは、実に、おもしろくもない納得を強いるのである。

 負けているのに勝っているとウソばかりついていた大本営の、国民をドレイ以下の扱いにして死ねといわんばかりであったインパール作戦等の、なんとも悲しむべき愚かしい指導者の実態がまざまざと思い浮かぶ。

 事故後に身を隠した東電の社長は。後方にいて兵士を死においやった牟田口廉也(中将)の根性とそっくりだ。ビルマ(現・ミャンマー)の雨季のすごさは、まさに彼らの「想定外」だったが、ただの無知、無能、無責任の結果だった。

 日本人は少しも変わっていない。
2011.04.06 / Top↑
 いまさら何をいっても空しいかもしれないが、原子力がゼッタイ安全ならば、東京のド真ん中に作ったらどうだという反対派の意見は、皮肉なことに一理も二理もあることになってしまった。ゼッタイとはいえないからこそ、ヘンピな地方へ、そこが犠牲となる可能性を承知の上でその居場所を探し求めてきたのではなかったのか?

 想定外のひと言ですませられる問題ではない。当時の原子力推進派、電力会社役員、政治家、設計者ほか、すべての人に責任をとってもらわねばなるまい。

 この前の戦争で、最大の犠牲となったのは最南端の島、沖縄だった。我はあえて、今回の事態を第二のオキナワ、第二のヒロシマと呼ぶ。東北の田舎が国家のエゴ、企業エゴの餌食となって、ふたたび原子力の驚異にさらされていく。ゼッタイ安全どころか非常に危険な実態をさらけだした今、そんな恐ろしいものは即刻やめてしまう方向へ、国は舵をとるべきではないのか?

 たとえ、それで街が明るさを減じようと、プロ野球のナイターができなくなろうと、国家予算がそれでどれほど削られようと、そんなことはたいしたことでもなんでもない、とあえていう。

 過ちは二度と繰り返しません、と誓ったヒロシマの犠牲者へ碑文をもう一度思い出さねばならない。またやってしまった過ち。ゼッタイ安全のウソ。プルトニウムがいかに恐ろしい悪魔の物質であるかを国民に知らせなかったツミは、死刑に相当する。今やどんな対策も、訓練も、ただの想定にすぎない。
2011.04.07 / Top↑
 自己反省も込めていう。闇の怖さを知らずに育った人間は、自然への畏敬の念も抱くことができない。人間は自然と共にあり、天体の巡り、宇宙の神秘、さらにはその恐ろしさのなかで生きていることにも思いが至らない。文明の勝利者は、裏を返せば、人間もその一部であるはずの自然への裏切り者だ。裏切れば復讐される。人とちがって、自然はそれをきっちりとやる。

 例えばインダス文明の滅びは、建物をつくるレンガを焼くために燃料としての樹木を伐りすぎたことによる大洪水であったといわれる。樹木の適切な伐採、管理を怠って花粉症を招来する程度の話ならまだしも、プルトニウム(「プルートー=冥王星=地下・黄泉<めいど>」からの命名)というまさに自然に背き、人々をジゴクに陥れる可能性のあるもので、たかが明るさをむさぼりつづけてきたとは、一体なんという愚かさであったか。

 その結果がこのような事態であるならば、すべての者に一抹の責任があるという見方もできるだろうか。闇のなかのランプひとつ、ロウソク一本のありがたさもわからないまま生きてきた現代日本人の、企業人や政治家の、あまりに不遜かつ傲慢であった事実に対する手ひどいシッペ返し。と、たとえ空しくても、くり返しいっておこう。
2011.04.08 / Top↑
 話題は、一点に集中している。集れば、大災害と原発の話だ。それはもう徹底していて、それ以外の話題はどこかへ押しやられてしまった。

 ここタイの首都バンコクの、我の周りにいる邦人、十名余りについて、それぞれの立場や考えをみていくと、日本という国、そのものの顔がみえてくるような気がする。

 もう三十年も前に日本を捨てたという男は、その理由について、一流の大学を出ても東京に家の一軒も持てないような国はダメだと思い、いさぎよく海外へ向ったという。

 ただ、家の話だけではない。とにかく、生活していくこと自体がたいへんである。朝夕、満員電車に揺られて会社へ向い、馬車馬のように働いて、それで暮らし向きは少しも楽にならない。ジッと手をみて、日本を捨てた。
2011.04.25 / Top↑
 理由はまだある。若いころ、国際機関で働いていた彼は、あなたの宗教は何ですか、と聞かれてまともにこたえられない自分に、つまり何のアイデンティティも持てない戦後の日本社会に生まれ育った自分に、大いなる疑問を感じ、国際機関をも辞して自立した。

 自立したといっても、その問題は解決されたわけではないが、終生のテーマとして自覚し、最後は一つの宗教にたどり着きたいという。

 宗教をもたない人間など、人間として認められないという国際社会の常識は、日本では考えられないことだ。実にむずかしい問題がそこにあるわけだが、確かに、戦後の日本社会は、国民のコンセンサスとして、それがないことで、羅針盤のない、さまよえる国になっている、という我の考えについては、しつこいといわれそうだが、もう一度だけくり返しておこう。
2011.04.26 / Top↑
 戦後民主主義は、ただの多数決でもって、あるいは声の大きな者の意見が通ってしまうという、力の論理でもってすべてが動いてきた。経済の論理が何よりも優先されて、それを持ち出されると誰も何もいえなくなってしまう。夜の街は暗くてよいのだと誰かが意見しようものなら、それこそ袋叩きにあってしまう。

 そこには、何らかの信念に基づいた、あるいは宗教的な精神を背景にしたものはカケラもなく、ただアタマのてっぺんだけは明るくならないでほしいと願う程度の、果てのない欲望を追求してきたのが戦後社会だった。
2011.04.27 / Top↑
 それがどうしてわるいのだ、と声の大きな者はきっというだろう。夜の街は暗くていいのだという者も、その意見の根拠がどこにあるかを示すことができない。相手を説得し、納得させるだけの論拠をもてない以上、明るいほうがいいじゃないか、という大声に抹殺されてしまう。

 むろん声の大きな者にも何らその言辞を支えるものがあるわけでもない、ただ、そのほうが快適で暮らしやすい、という実に人間の欲望に忠実な意見にすぎず、何らかの価値観や精神論に支えられたものではなかった。
2011.04.28 / Top↑
 その意味では、言葉はわるいけれども、サル山の猿たちと同じ次元の、力の支配がまかり通ってきたのが戦後社会だった。

 猿の論理を脱して、進化した人間らしい何かを発揮するには、どうしても必要なもの(何らかの精神性や原理原則といったもの)があるはずだが、それが希薄であったことで、何が起こったかというと、例えば弱者の切り捨て、見殺し、放置といったことだった。

 それを例えば企業は平然と行なってきた。水俣病などはその典型だったか。企業(チッソ)は、恐ろしい病と垂れ流した水銀との因果関係をながく認めようとせず、多数の哀れな被害者を見殺しにしたことは記憶に新しい。
2011.04.29 / Top↑
 法人(企業)は、人間そのものではない。ゆえに、一歩間違えば非常に危険である。法で認められた利益の追求が最優先されることで、一定のモラルを失えば、狂気の沙汰に、いや凶器にもなり得る。

 人間の集団であるはずのそれが、人間とはほど遠い、ジェット戦闘機なみの凶器と化す恐れがある。それを支配する人間そのものに、サル山の猿を超えるものがないとき、恐ろしい悲劇が起こるのは当然のことだ。

 戦後の日本社会はそれをいやというほど味わってきた。 なぜそういう有様になったのかと問えば、「敗戦」による「喪失」、それも国破れて山河しか残らなかった、といえるほどにひどい精神性の喪失、に最大の因がある。
2011.04.30 / Top↑
 ゼロからの出発、というよりマイナスからの出発だった。難破船、と我は呼んでいる。それを修復して、航海ができるようになるまで、アメリカが内装を担当した。

 国の体制、社会のシクミを従来のものとはまったく別のものに変え、当初は「復興」を大前提にし、次には「成長」を目指し、国民はそのために全力を挙げた。

 戦没によって減ってしまった人口をフッコウさせるべく団塊の子どもたちを産み、1万3千6百円にすぎなかった月給を倍、また倍にセイチョウさせるべく、猛然と働きつづけた。そのパワーたるや、やはり世界の強豪を敵にまわして戦った日本という国の、とてつもないバカちからを感じさせるものだった。
2011.05.02 / Top↑
 バカちからといったが、むろんバカに意味がある。バカな戦争だった。愚か過ぎた。

 アメリカを知る数少ない識者が、あんな国にはゼッタイに勝てない、必ず負ける、と無謀なギャンブルを戒めた。にもかかわらず、神風などという幻の風を信じた愚か者の大声が通ってしまった。

 あまりの愚かさは、開戦後もつづき、ゼッタイに成功しない作戦を最後まで膨大な犠牲を出しながら遂行してはばからなかった。負けているのに勝っているかのごとく装い、ウソばかりついていた。それがわが国の為政者(当時は軍人)だったことは肝に銘じておいてよい。

 そして、広島、長崎に原爆が投下されたとき、銃後の女性たちは何と竹槍で米兵を突く練習をしていたのだ。
2011.05.03 / Top↑
 笑ってしまいたいところだが、それではすまされない。そんな愚かすぎる民族がこの地球上にいた、という事実について、戦後の日本人はどれだけ自覚し、猛省し、先々の国の行方をみすえただろうか。何もみていなかった。みえるはずもなかった、といったほうが正しい。

 ただ茫然自失した国民は、無条件降伏の下、意外にやさしいアメリカ人にチョコレートと引き換えに身体を差し出すことで生き永らえようとした娼婦と同じ次元の、アメリカの温情にすがりながら生存への欲求をどうにかするのがせいぜいだった。

 アメリカのいいなりは、ここからはじまる。いいなりになりながら、GHQの頭領、マッカーサー(元帥)に十二歳だといわれた国民は、フッコウとセイチョウを目指すほかなかったのである。

(話が意外と長くなりそうなので、このへんで有料部分の購読者は「実感!タイ暮らし」の第七話バンコク日誌①マンゴスチンが出た」をあわせてご覧ください。この無料部分はひきつづき、「わが文章修業」と共に数日に一度ペースで掲載をつづけます。)
2011.05.03 / Top↑
 人間そのものに置き換えても、人のいいなりになるというのは大変なことだ。いいことばかりだといいが、間違った方向へと導かれる危険性は多分にある。最後は、死ねといわれる(あるいは結果として死す)恐れすらある。

 いいなりにならなかった、というより、なれなかったものが一つだけある。アメリカの一州に加えられても文句はいえない無条件降伏であり、それに相当するほどの難破船の修理、改変ぶりではあったが、一つだけ、アメリカが持ち込まなかったものがある。それは、宗教であった。
2011.05.11 / Top↑
 これを幸い、としていいかどうか。戦前、戦中を通じて迫害されたキリスト教が復活したくらいのもので、アメリカは日本国民にそれを強要することがなかった。

 やろうと思えばできただろう。幼児からの教育の一環として、今後はキリスト教を日本国の宗教とする、その教えを教育に取り込む、教会をどんどん建てて、国民を教化していく、といったことがあっても不思議ではなかった。

 フィリピンを占領、支配したスペインはそれをやった。まずは宣教師による進出、教化から植民地政策ははじまった。ために、いまはアジアで唯一のキリスト教国となっている。
2011.05.12 / Top↑
 アメリカがなぜそれをやらなかったのか。日本人の精神をそこまで変革することはできないと考えたのか、はじめからそこまではやる気がなかったのか。その問題は、さて措く。

 それをやらなかったことで、確かに古来の神社仏閣が存続することになった。伝統文化のあれこれも継続することにはなったが、それらを支えていく世代の育成をどうするか、後継者をどのように育てていくかについては、ほとんど何の手を打つこともなく放置された。

 日本の神道、仏教の世界もまた敗戦によって活力をなくし、檀家制度等の従来の慣習を形骸化させ、冠婚葬祭の役目を維持するのが精一杯で、これからの日本人の精神性をいかに担保していくかの問題にいたっては、これまた何の知恵も策もなかった。

 韓国におけるキリスト教の興りは、宣教師たちが朝鮮戦争後の廃墟で人々に光明を与える努力をした結果だといわれるが、敗戦後のわが国でそのような役目を担えるとすれば、数の上からいっても仏教界であったはずだが、何の努力もしなかった(これまた茫然自失で何もできなかったといったほうがよいか)ことで、戦後の日本人は精神的にも路頭に迷うことになる。
2011.05.12 / Top↑
 その結果、何が起こったかといえば、無数の宗教法人が乱立し、無税の恩恵にあずかりながら、ある者は勢力を伸ばし、ある者は問題を起こすなどして立ち消えていく、という現象だった。

 ときに他を罵り、あるいは非難を浴びることになる、その背景には、いわゆる御利益宗教に救いを見出そうとした人々の誤算、ときに犠牲が(帰らぬ人となるケースすら)あった。

 わが国の伝統仏教が葬式仏教と悪しざまにいわれながら形骸化し、人々の精神性を支えるものではなくなっていく(一部の熱心な多くが年配の信者は別にして)一方で、それでも何ものかに頼りたい人々(とくに年若い者)の心を捕らえたのが自己の利益、欲得を満たすための、そして且つ巨大化をめざす新興宗教であった(すべてとはいわないが)という、二重の悲劇が進行していったのが戦後社会だった。

 これを「断絶」と、我は呼んでいる。戦前まではあった日本(人)の、日本(人)による、日本(人)のための精神世界(伝統文化や宗教、哲学等も含めて)は、多くが滅びに向った。それに代わる新しい、同等の価値ある何かが生み出されたかと問えば、如上のごとく、否というしかない。それがために、わが社会は深刻な問題を引きずることになる。
2011.05.19 / Top↑