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あるライバルの存在

 またビンボウがはじまったころ、ある友人が我の住む阿佐ヶ谷へやって来た。古い、学生時代からの友だちだった。

 学校は違うけれど、ひょんなことから知り合い、付き合うようになって、当時は、痔仲間、なんてお互いに呼んでいた。

 痔とは御存知、ウンコするたびに切れて血が出たり、中のお肉がポロンと外へ飛び出して、痛くてしかたがなくなる病気。

 椅子に座ることもできなくなって、困っていたときに、我の母がみつけてきた名医のところへふたりで出かけた、そして、彼はすっかり治ってしまったことから、とても感謝されていたのだが、そういう仲の彼が、突然、遠くから(勤め先が小倉で実家は下関だった)やって来た。
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2011.08.01 / Top↑
 いったいどうしたんだと、一晩酒を飲みながら聞けば、彼の父親が、やっぱり医者になってくれないか、と一生懸命に懇願した、という。びっくりした。

 というのも、いまから医者になるなんて、もう二十八歳になっていたから、それは無茶だと思った。彼と知り合ったのは、彼が医学部をめざして浪人していたころで、三浪目のことだった。

 三浪、とは、大学受験に二度失敗して、勉強をつづけている人のことだが、四度目の挑戦もうまくいかなくて、結局、あきらめて、ふつうの大学の経済学部へ入って四年で卒業し、その後、小倉のデパートに勤めた。
2011.08.02 / Top↑
 突然、我を訪ねてきたのは、デパートに勤めて二年が経つころだったと思う。父親の願いを受け入れて、そこを辞めて、苦労をしている友人を尋ねてきたというわけだった。

 我の処女作『海を越えた者たち』の初版本を三百冊も買ってくれた友人である。でも、いまから再び医者になるべく、予備校に通ってベンキョウしなおす、と聞いたとき、正直いって、唸ってしまった。
2011.08.03 / Top↑
 浪人三年、大学四年、勤め二年で、それだけでもう九年の歳月が経ってしまっていたからだ。大丈夫か、と心配したのもムリはない。

 それもかつては四度まで失敗しているのだから、これはもう、大変なことだ。誰だって、そう思うだろう。

 しかし、とにかく、そういうわけで、やるしかない。彼の父親は、大きな病院の院長までつとめた立派な医者だった。で、息子がしがないサラリーマンをやっていることに耐え切れなかったのかな。

 これもきっと業というものだね、最後の夢を息子に託した。もう一度、やってくれ、と。
2011.08.04 / Top↑
 それを受け入れた息子もすごい。ふつう、こうはいかない。何をいっているんだ、おやじ。おれはもう二十八歳だよ、これから医学部受験なんて、むかしのことを考えたら、とてもとても、ムリというものだよ。

 願いを蹴るのがふつうだろう。たとえ、どれほど愛する父親であっても、聞けることと聞けないことがある。それは聞けない、というのがふつうだってことは、彼もいっていた。

 それを聞きいれたのは、やはりサラリーマンは自分の肌に合わないし、こんどこそ真面目にやれば、できるかもしれない、と思ったからだという。

 それに、東京には、ササクラがいる、三畳の間で苦労している友達がいる、ということが理由の一つに入るらしかった。
2011.08.05 / Top↑
 こんどは痔仲間ではなく、苦労仲間というのかな。我の近くの安アパートに住んで、予備校へ通いはじめた彼とは、実際、いい意味でのライバルだった。お互いに食えない、海のものとも山のものとも知れない時代のライバル。

 ライバルとは、語源がリバー(川)で、人生のなかで同じ流れにいる者、という意味。いっしょに同じ種類の目標に向って努力している者同士、というくらいの意味かな。
2011.08.07 / Top↑
 人がけわしい道をいく場合、そういうライバルの存在というのは大きい。スポーツの世界でよく使われるけれども、それだけじゃない。九年間も遠まわりをして、医者になるべく挑戦をはじめた友がいた。そのことが、やっぱりあきらめきれずに書きつづけていた我にとっては、いい励みになったのだ。

 そして、一年後、彼はみごとに合格した。たいして有名でもない大学だったけれど、よかった、ホントによかった、と我はよろこんだ。
2011.08.08 / Top↑
 そのとき、人の能力というものについて、トクと考えさせられたものだ。彼が三年間、高校を出てから過ごした浪人時代は、本当の力を出し切ってはいなかった。ギリギリまで自分を追い込んでいなかった。だから、勉学も甘くなる。浅いところで留まって、底力は出していなかった。

 それが九年間も回り道をして、これでダメならあきらめねばならない、という切羽詰った状況になってはじめて、彼は自分の力を出し切った。そう、人間の能力というのは、本当は、底が知れないものなのだ。
2011.08.09 / Top↑
 ふつうは、そこまで自分を追い込めない。火事場のバカちからではないけれど、尻に火がついてはじめて、その人の本当の力が発揮できる、そういうものだ。だから、およその人は、その底力をみせないまま、発揮できないまま、その道をあきらめるか、逸れるか、してしまうんじゃないかと思う。

 自分の力を過小評価してはいけない。何だって、やればできる。なせばなる、とは、東京オリンピック(一九六四年)で金メダルをとったバレーボール・チームの大松監督の言葉だけれど、本当にそうだと、友達の医学部合格をみて思ったものだ。
2011.08.10 / Top↑
 もちろん、合格してもまだ先がある。勉学についていけるかどうかも問題だし、肝心の国家試験に合格しなければ元も子もない。その意味では、我の新人賞以降と同じ、入選して一応スタートは切ったけれども、食えるようになれるかどうかは未知数だ。

 だから、彼が医学部へ入ってからも、いいライバルでありつづけた。大学が他県にあったから、彼は阿佐ヶ谷を出ていったけれど、ときどき連絡を取り合って、よく安酒を飲んだものだった。
2011.08.11 / Top↑
 そのK君について、たぶんもう話すこともないだろうから、先を急ぐ。学業もよい成績で卒え、国家試験にも合格し、三十台も半ばにして、晴れて医者となった。

 はじめは大学病院に勤めていたが、やがて内科医として独立、やはり医者だった母親が使っていた小児科の病棟を引き継いで開業し、下関では知る人ぞ知る医院となった。

 Kとは川野のK、とバラしても差し支えあるまい。川野胃腸科内科。大学町にあって、後に、我の一年ほど後に『漂泊者のアリア』で直木賞(第一〇二回)を受けた古川薫とその奥さんの主治医でもある。大腸の内視鏡検査では知られた存在で、川野さんにやってもらうと痛くない、という評判から、いまやその筋の名医となっている。
2011.08.12 / Top↑
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2011.08.13 / Top↑
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2011.08.16 / Top↑
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2011.08.17 / Top↑
 その結婚式があった某年某月、我は未だなかずとばずの身を下関へ運んだ。仲人は、安倍晋太郎(故。安倍晋三元首相の父君)とその妻、洋子さん(旧姓・岸。元首相・岸信介の娘)で、ずいぶんと賑やかな式だった。

 まあ、そんな有名人の名前はどうだっていいんだけどね、彼がもし医者になれていなければ、これほどの催事はなかっただろうと思うと感無量でね、まだ元気いっぱいだった安倍さんには、我はまだひよっこのモノ書きながら、先々はわからないので、その節はよろしく、というと、おう、そうか、とうなずいて、がんばりたまえ。奥方の洋子さんにも、きげんのよい笑顔で接してもらった。
2011.08.18 / Top↑
 そのときの、新郎みずからのスピーチでは、我の名前を口にして、つまり、ササクラがいてくれたおかげで医者になるべく、踏ん張っていられた、という意味のことをいった。これで、まずは一件落着、モンダイは我のその後、ということになる。

 その後、そう、我のさらなる修業時代(いまもそうだけど)に、大いに励みになったことといえば、三畳間の真ん前、路地を挟んだ向いのアパートに住んでいた、ある女性かな。
2011.08.19 / Top↑
http://sasakurablog.blog16.fc2.com/blog-entry-1141.htmlからの続き)

 これを犠牲という。かよわい、何も知らない子供たちへ、アメリカのいいなりになる政府、文部省が定めた教育のあり方、方針が強制されていく。それが立派なものであればギセイというのは当たらない、が、その中身たるや、ただの詰め込み、叩き込み、記憶力の競争と、それによる○×の分別(ブンベツ)にすぎなかった。

 学校の先生もそれしか教えることがない、教える必要がない。試験の点数をつけ、それによって及第させるかどうかを決め、生徒の等級をつけてすませるほかはなかった。その意味では、戦後の先生がたもまた犠牲者だったといえるかもしれない。
2011.08.20 / Top↑
 子供たちに何もいえなくなってしまった。これが戦後の教育者と教育現場の実態だった。定められたカリキュラムをこなすだけで、それ以外は、みずからの人生観も、道徳観も、価値観も生徒の前で述べることは許されていなかった。中には、禁をおかして語りかけ、それなりの影響を与える教育者もいることはいた(これは私学がほとんどだろう)が、例外といってよい。

 ましてや、宗教がからむ教えなどは御法度であり、それは教育基本法にも「(公立校では)特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」と謳われていた。

 人間的な教えというものには、多少なりと宗教色がつくものだが、その色を出してはいけないし、出す時間も与えなかった。先に、教育基本法は抽象論にすぎると記したが、その抽象を具体化する術も時間もなかった、というのが現場の実態だったのだ。
2011.08.21 / Top↑

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