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 別に恋人だったとか、ヒモになったとかじゃない。そんな色っぽい話なら、いいのだけれど。

 これが何と、我のライバルだった又吉さんの故郷、沖縄出身の女性だった。ちょっと色の浅黒い、あつくるしい顔をした、なかなかの美人だった。

 路地は狭くて、互いの窓から手を伸ばせば、握手ができそうなくらいだった。が、それもしたことはない。ただ、お互いに何をしているかは、開け放った窓からみえた。とくに、我が座り机に向って、何かを書いている姿は、彼女(大城さんというんだけど)には、まる見えだった。

 ある日(暑い夏の真昼どき)のこと、ベランダで洗濯物を干していた彼女から、「何を書いていらっしゃるんですか?」と、突然、声がかかったのだ。

それはもう、びっくり仰天、というのかな。窓越し、路地越しに、きれいな人が住んでいるな、と前々からわかっていて、でも、狭いとはいえ路地を隔てて、遠いひとだと思っていた。こちらから声をかけるなんて、考えもしないし、まして、あちらから声がかかるなんて、夢にも思っていなかった。

 いや、夢くらいはみたのかな。

 そう声をかけられて、我はガラにもなく、どぎまぎしてしまった。いえ、その、あの、と言葉をつまらせて、あとがつづかない。正直に、売れない小説、と答えればいいのに、それができないでいた。

「いつも、夜遅くまで、たいへんですね」

 彼女がそうつづけてくれなければ、会話は一方通行でおしまいだったかもしれない。相手からは、三畳間であることがわかっていたし、そこで毎夜おそくまで、原稿用紙に向っている男が何者か。

 それをたやすく察することができるだけの環境が彼女にはあったのだけれど、そのときの我には知るよしもない。

 売れないモノ書きです。

 やっと、そんなふうに答えたと思う。売れない、を強調した。

 すると、彼女はにっこりとして、がんばって、という言葉をひどくやさしく口にした。まるで天使のような声色だった。
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2011.09.01 / Top↑
11/09/01 わが文章修業(237)
11/09/05 わが文章修業(238)
11/09/12 わが文章修業(239)
11/09/19 わが文章修業(240)

その他、不定期で入稿する可能性もございます。
2011.09.02 / Top↑
 以来、窓越しに言葉を交わすようになった。実は、小説を書いていることも白状して、食えない身であることも告げて(これはいわずもがなだったが)、すると、いよいよ親しげに、彼女の周りにもモノを書いている人がいる、とか何とか、話が広がっていった。

 確かに、沖縄から遊びにきた彼女の友人女性は、当間さんといったけれど、沖縄の新聞にもエッセイなどを書いている人で、そのときはじめて、三人でお茶を飲んだものだけれど、それ以外は、ほとんど路地越しの会話だった。大城さんがどういう仕事をしている人なのかも、わからなかった。

 ただ、いつも帰りが遅かった。深夜、零時をとうに過ぎて、つまり午前さまとなることが多かった。いつも夜おそくまで、たいへんですね、と彼女がいったのは、帰ってくる時間に、未だこちらの窓に灯が点いていたからだ。

 完全に夜型で、寝るのは午前三時から五時の間だったから、彼女が帰ってくる足音もよく聞こえた。察するところ、水商売。いや、間違いはなかった。というのも、出ていくときの足音と、帰ってくるときの足音がまるで違っていたから。出勤のときは、しゃきっとして、帰ってくるときは、コツン、コツンと、ゆっくりと、ふらりふらりと、ハイヒールの足音を路地に響かせていたから。

 要するに、お酒を飲んで帰ってくる。だから、少しばかり酔った感じの足音になるわけね。

 路地越しに言葉を交わすようになってどのくらい経ったころだったか、おぼえていないのだけれど、我が売れないモノ書きで、頑張っていることを彼女がすでに知ってからだったと思う。いつもの足音がコツン、コツンと遠くから聞こえてくると、あっ、帰ってきたな、と思うわけだけれど、窓から、お帰り、と声をかけるようにもなっていて、その日も、窓から顔を出して、そうしたと思う。

 すると、彼女は、窓の下で足をとめ、ふっと三畳間の窓を見上げた。
2011.09.05 / Top↑
 そして、こういった。
「今日は、ワタナベ・ジュンイチさんのお席についたの。昨日は、ヨシユキ・ジュンノスケさんのお相手をしたわ」

 一瞬、我の頭は空白になった。ワタナベ何某が、渡辺淳一であり、ヨシユキ何某が吉行淳之介であることは、数秒後には察知して、絶句する。そうか、彼女は銀座の女だったのか、と呟くや、つよい衝撃が身をつらぬいた。

 ショウゲキって、簡単にいったけれど、もっと詳しくいえば、びっくりして、頭がおかしくなりそうだった。

 どうして、そんなにおかしくなりそうだったの?

 なぜっていわれると、困る。いまは大いに反省しているのだけれど、おかしくなる必要はどこにもなかった。当時はまだ若造だから、あこがれのギンザというところで、そこにあるといわれる文壇バーで、夜な夜な、さぞかし華やかな宴が繰り広げられているのだろう、と思うと、狭い部屋で売れない小説をシコシコとマスターベイトしている身をちょっと哀れに感じてしまったのだ。

 そして、路地越しの部屋に住む女性が、そのウタゲのなかに、毎夜いるということが、信じられなかっただけにショウゲキだった。

 何というめぐり合わせだったか、阿佐ヶ谷というところがそもそもそういうことが起こり得る場所だったのだけれど。

 これもある種のシットだったのかもしれない。でも、それが妙な励みになったことも確かだ。いつの日か、オレもそのウタゲの中に、仲間に入ってやる、という闘志のようなものが、ふつふつと湧いてきた。

 大城さんも、それは計算ずみだったかもしれない。それからは、しばしば窓の下で足をとめて、今日は誰それの席についたわ、と報告するようになる。誰もが名の知れた作家だった。そう、彼女は、知る人ぞ知る、「眉」という有名な文壇バーの売れっ子として活躍していたのだ。

 このことは、ずっと後になって知るのだが(それから十年余り後に我も銀座へ出入りするようになってから)、そのときは、ただただ、うらやましい、かぎりだった。
2011.09.12 / Top↑
 彼女のことも、この先、話すことはないと思うから、先を急ぐけれど、我が直木賞をもらったときは、銀座で店を張っていて(むろん「眉」から独立して)、確か「まりも」という小奇麗な店だった。そこへ、たまに出向くようになったのだけれど、彼女は賞を受けた我をたたえて、こういった。「カッコいいよ、ササクラさん」

 すると、あの三畳間時代は、カッコわるかったのかな。まさに、食えない惨状(三畳)の間だった。同業の先輩、村松友視(視は示へん)も「まりも」の客で、あるとき、彼女との路地裏物語を話すと、ひどくおもしろがって、それを書け、などと叫んでおられた。

 村松さんも「海」(中央公論社が出していた文芸誌)の編集者時代から銀座に出入りしていて、彼女のことは眉にいた時代からよく知っていた。何かのパーティーの帰りだったか、いっしょに「まりも」で飲んだこともある。

 その後、彼女は誰かとフランスへ行った、という話を風の便りで聞いた。繁盛していた店を畳んでも惜しくないほどの人だったか、その後の消息は知らない。

 思えば、人の縁というのは不思議なものだ。我の対抗馬だった又吉さん(我より七年余り後に芥川賞<第114回>)も沖縄、その後、我を路地裏で励ましたのも沖縄の女性だった。やっぱり、南に縁があるのかな。我もまたまぎれもない南方系だから。血液はO型、インド、東南アジアあたりがご先祖さまの出にちがいない。もっといえば、メコンの源流、チベット高原東部あたりが縄文時代にわたってきた先祖の原住の地であったはず。

 まあ、そんなことは措くとして、印税もつき、ネタもつきた我はどうやって食っていたのか?

 どんな人でもそうだと思うけど、やっぱり人との縁、出会いというのが何よりの力になる。他力とか自力という言葉が仏教の世界にあるけれど、我の場合、自力より他力のほうがだんぜん勝っている。

 そもそも、食えない身だってことは、そういうことなのだ。自分で満足にメシや酒にありつけないのだから、足りない部分は人にたよるしかない。そのとき、人に迷惑かけていると思う人と、そうではない人に分かれる。で、我の場合は、平気で人の世話になった。相手も迷惑だなんて思っていない、という考えがあった。これを本当の楽天家というのかな、ものごとをあまり深刻には考えない。

 深刻に考えていたら、我の命はいくらあっても足りなかった。学生時代の同級生に、そのころ、飢えて死にそうになったのがいたけれど、彼女は人に助けを求めなかった。プライドの高さがじゃまをして、素直になれない。プライドなんてものは、ただのホコリ(埃)にすぎない、そんなものはパッパッと払って、人に頭を下げて掌をだす(物乞いをする)ほうがよほどいい場面が、人生航路のなかではいくらでもあるのだよ。

 人のものを盗ってはいけない。それはツミというものだから。人をだましてお金を手に入れてもいけない。これもサギといって、ツミだから。

 でも、物乞いといって、人のおなさけにすがって、掌を出す。これはツミじゃない。やっても許される。モノをくれるかどうかは相手しだい。ちょうだい、といって、ダメといわれるか、いいよ、といわれるか。それだけの話だから。
2011.09.19 / Top↑
 そういえば、ここタイという国の、上座部仏教の僧は毎朝、托鉢に出かけ、民衆からの施しによって命をつないでいる。タクハツとは、別名コツジキ(乞食)とも呼ばれるように、他人に食を乞う行為のこと。そうしてみずからは何をしているかというと、覚りへの道をひたすら歩く、つまり修行僧としての鍛錬を日々行なっているわけで(むろん人々に教えを説いたりもするが)、いつの日か自身が仏陀となり、覚りを開くことを目標として歩む。

 が、その修行というのは相当に大変、なにかと難しいものだから、途中であきらめ、離脱してしまう人も当然ながら出てくる。それを還俗といって、俗なる世界へ還ることも上座部の世界では自由、きびしい修行ゆえに続かない人が出るのは当然という観点からの寛容さもまた兼ね備えていて、その辺がキリスト教の神父などとは違うところ。

 我の友人のタイ人は、ひとりが一ヶ月、もう一人はたったの一週間で黄衣を脱いでいるが、男子たるもの一度は仏門を経験することがいわばイニシエーションで義務としてあるこの国では、ごく一般的な短さであって、ふつうの人間に長く勤まるような修行ではない。

 話を戻そう。何ごとも修行中の身というのは、乞食(コツジキ)をもって食を人に乞いながら生き、進んでいくものだということをいいたいために、わざわざ異国の修行僧の話をしたまでのこと。我もまたそんなふうであったといえば恰好がつくかと思ってみたにすぎず、他意はない。

 よくある話に、食えない時代は女に食わしてもらっていたという、平たくいえばヒモ生活をしていた人も数いるわけだけれど、我の場合、残念ながら、それはなかった。それがあれば、ずいぶんラクであったろうとは想像してみるものの、逆にヒモに縛られ窒息していたかもしれないという気がしないでもない。ヒモになる素質というのが我にはどうもなかったらしく、むしろ拒否するくらいの心情でいたことが思い返される。女性に対するその辺の心情は、実に強情というか、損な性格であることを認めるほかないのだが、では一体誰に向ってコツジキをしていたのかという話になってくる。

 ちょうだい、と手を差し出して、くれるかどうかは相手しだい、別に罪なことでもなんでもない、という話をしたが、実は、直接に手を差し出したことはない。そういう単純な話ではなくて、乞い願わなくても援けというのは来るものだ、何もいわなくてもいい、あるがままでいれば、といえば誤解を招くかもしれないが、例えば、人との付き合いのなかで、相手にカネがあるかどうか、とか、不自由をしているかどうか、とかは、いわなくてもわかる。その人の様子、たたずまいをみれば、つまり何を着ているか、靴はどんなものを、鞄はどんなものをもっているか、等々、その人を取り巻く雰囲気も含めた諸々の有様から、およそ生活の中身がわかってしまう。

 会うたびに着たきりスズメ(いまもそうでタイで買ったジャンパーを年がら年中夏でも着ている)の我にカネがあるなどと思う人は皆無、よほどの変人でないかぎり、アナの空いたビニールの靴(いまはサンダルかスニーカーしか履かないが当時はそうだった)で雨の中を歩く金持ちはいない。

 我にはカネがない、貧乏であるとわかった相手が、それでも付き合うことを選ぶかどうか。酒を飲むにも、ふたり分の出費というギセイを払ってなお出かける選択をするかどうか、できるかどうか。我の場合、それができる人との出会いがさまざまあったということをもって、とくに請わずにもらう乞食の意味としたいのだが、再び思い返せば、当時の我には、食えないながらも何かに向かって努力をしている姿が人目にも瞭然であったこと、そのことが無言のコツジキを可能にしたのだろう、と、これはただの自惚れではなく、長い時を置いて客観的にみれば、我ながらよくやっていたし、その姿勢をてらうことなくみせていた(みられていた、ともいえるが)、それゆえの成り行きであったことがわかってくる。

 一所懸命にやっている姿、形がみえなければ、誰も援助などしてくれない。それでも援けてくれるのは、限りなく甘い親か、他人なら金銭、利害がからむ場合だけだろう。
2011.09.26 / Top↑
9月26日(月) わが文章修業(241)※配信済み
10月3日(月) わが文章修業(242)
10月10日(月) わが文章修業(243)
10月17日(月) わが文章修業(244)

読み応えのある内容です。お楽しみに。
その他、不定期で入稿する場合もございます。
管理人 拝
2011.09.27 / Top↑

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