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 むろん以上に関連していうのだが、人には、ウンメイを決する出会い、というのが人生で何度かある。それほど多くはない。人生の大きな節目、といってもいい。

 我のそれは、大学時代の恩師との出会いがまず一つ。いまのワセダに、あんないい先生はいるのかな? わからないけど、先生のことを忘れないために、俳名まで同じ音にしてしまった。先生のは「桐雨」だったけど、我は「桐生」とつけた。両方とも、トウウと読む。これを拝借というのだけれど、ゼッタイに許してもらえると思う。楽天家だね。

 二つ目の出会いは、「難民」だった。ナンミンとは、ナンは困難のナンでもあるし、避難のナンでもある。困難な状態を逃れて、異国へと避難してきた民、という意味だ。

 ここからの話は、ちょっとむずかしくなる。
 一九七五、という年。そのころ、我は勤め人だったし、モノ書き修業の只中にあって、海外で起こっていることに目を向ける余裕もなかったのだけれど、インドシナというところで、「革命」があった。

 インドシナとは、インドとシナ(中国)の間にある地、という意味。一応、半島、という名がつくけど、れっきとした大陸の一部だ。メコンという大きな河がその半島のなかを流れている。

 メコン川なんて呼んでいるけど、間違いだ。メーナーム・コン、を略してメコンという。つまり川をつけるなら、コン川、といわなければならない。メーナーム、というのが「川」の意味だから。そういうことって、ほかにもいろいろとある。日本人は明治以来、南の国を蔑視するというか、脱亜入欧といって軽視してきたから、そういう間違いが起こって、しかもそれをなかなか正そうとしない。戦争中だけは鬼畜米英で、戦後はまた欧米一辺倒だからどうにもならない。つい近年まで、わが国の教科書には、チャオプラヤー川のことをメナム川と書いてあった。

 それはともかく、そこで共産主義革命が起こった。サイゴン陥落。なつかしい言葉になってしまった。その前に、プノンペン陥落、があった。両方とも四月。そして、ビエンチャン(ラオスの首都)の陥落もあった。要するに、インドシナ三国が次々と共産化されていった。

 歴史用語でいえば、インドシナ戦争というもの。その第一次が、植民地として統治していたフランスとの独立戦争(一九四六~五四年)、第二次がアメリカとの戦争で、いわゆるベトナム戦争(一九六〇~七五年)だ。

 世界史をみれば、二〇世紀の後半というのは、いわゆる自由主義陣営と共産主義陣営の覇権争いだった。インドシナでは、ベトナムが宗主国のフランスに刃向かって、ホーチミンという人物を中心に戦い、勝利して、めでたく独立し、その後、共産主義国家を築ことしたところへ、それを嫌ったアメリカが介入してはじまったのがベトナム戦争だった。

 その戦争が北ベトナムの勝利、つまり南ベトナムを支援したアメリカの敗北に終わったことを示す、一大エポックがサイゴン陥落だった。他の二国(カンボジア、ラオス)においても、同じように共産主義陣営が勝利して、バタバタと王国がひっくり返り、政権が変わっていった。

 その変わりようというのは、自民党から民主党への政権交代とはわけがちがう。社会そのものがガラリと変わって、それまでいい目をみていた人たちや、ゆたかな生活を営んでいた人たちが、そうはできなくなってしまうわけだから、当然、彼らは逃げていこうとした。極度の逆転、百八十度の覆し、というのが革命というものだから。当時、そうして逃げていく人たちを、何とかピープル、と呼んだ。

 ベトナムから南シナ海へと船出して、他国の船に拾われることを期待した人たちは、ボート・ピープル。カンボジアとラオスのタイ国境(ラオスはメコン<大河>が境、カンボジアは橋などが境)を越えて逃げてくる人たちは、ランド・ピープル。およそこの二種に分かれるが、中には、他国へ逃れた後、さらに、何らかのツテや金で偽造パスポート(例えばタイや台湾のパスポート等)を手に入れ、空路で他国へと逃れる人たちがいて、彼らはエアー・ピープルと呼ばれた。
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2011.10.03 / Top↑
 空を飛ぶ余裕があるのだから、いちばん同情されにくい。着の身着のまま、ほうほうの体でタイ国境の難民キャンプに辿りつき、救援を待っている人々へは国際機関が乗り出して受け入れ国を世話する活動が行なわれたものだが、経由地こそ難民キャンプであっても、手持ちの小金(キンの場合も)があるものだから、さっさと抜け出してタイの首都、バンコクへと向い、そこから東京へ飛んできた人々のことは、まったくカヤの外で、当時、そういう人たちがいることすら、誰も知らなかった。

 知らないのもムリはない。彼らは大都会の隅に、タイ人として、あるいは台湾人として、身を潜めていたのだから、一般の日本人の知るところではなかった。それが露見したのは、ひとりの女性が仕事帰りに、たしか自転車の無灯火によって警官に職務質問されたのがきっかけだったと思う(この辺は記録を見返さないと定かではない)。異国人とわかったため、外国人登録証の提示を求められ、不所持であったことから署に連行され、ほどなく逮捕されたのだったが、その取り調べの途上、彼女自身の来し方、身の上を話しはじめた。いわく、私はラオス難民で、かれこれしかじかの事情で、云々――。

 チャン・メイラン(陳美蘭)という、まだ二十歳そこそこのうら若い女性だった。記憶されている方もあるかもしれない。当時、共同通信の記者が率先して取り上げ、いくつかの新聞に載ったことから、彼女のような難民の存在が明かされるわけだが、その訴え(私はナンミン)に応えて乗り出していった市民がいた。後に「インドシナ流民と連帯する市民の会」と名付けられた会のメンバーは、学生、主婦、新聞記者、宗教家(カトリックの神父)、カメラマン、弁護士などで、やがて我のようなモノ書きが加わることになるきっかけもまた、メイランのことを書いた新聞記事(社会面)だった。

 ナンミンではなくリュウミンと称されたのは、英語でいえば、REFUGEE(難民)とDISPLACED PERSON(居場所をなくした人)の違い程度で、意味合いに大差はない。我の見方でいえば、苦難のさなかにいるのが難民、そこから抜け出して異国へと向ったとき、流民となる。まさに日本という一つの島(国)へ流れついた人たち、といった感じだったか。

 彼女、メイランの獄中からの訴えに現実的に応えられる存在は、なんといっても弁護士にほかならず、会の中人となった。思い起こせば、十余名の弁護士が馳せ参じ、何がそんなに彼らを惹きつけたのか、なんと弁護団をつくって彼女の救済に乗り出していく。本当にナンミンなのかどうかの調査(タイ・ラオス国境の難民キャンプへも出かけていく)から、法廷での闘い(強制送還を免れて特別在留許可を獲得する)まで、国内外にわたる彼らの活動がはじまってみると、彼女の背後に、同じような境遇にある者たちがぞろぞろといて、我も我もと隠れていた顔が現れはじめたのだった。

空からの難民、美蘭メイランが裁かれた日
空からの難民、美蘭メイランが裁かれた日

 そのへんの事情をここで記している暇はないので、知りたい方は、とうに絶版になって探すのが難しいかもしれない(図書館にはあるか?)我の著作『東京難民事件』(三省堂、後に集英社文庫)を手にとってもらうほかない。まったく売れなかった本で、三省堂はよくぞこんなものを出したものだが、実は学生時代の同級生が編集部にいて、食えないわが身のために、社が損をするカクゴをしてくれた結果にほかならない。

 これまたコツジキの一種、四千部も刷ってくれて、しばらくは生活をノリすることができたのだったが、その編集者、M君によれば、実は二千部ほど売れ残って断裁(紙切れに)したという。売れないゆえに「幻の名著」といってくれたのは作家の若一光司(現在はテレビ<主に大阪>のコメンテーターで活躍している)だったが、まさに夢幻のごとき歳月を過ごすことになる、そのさなか、我を食わしてくれたのが、ほかでもない、弁護士の幾人かであった。
2011.10.10 / Top↑
 思えば、インドシナ流民に同情してその支援活動に参加するなど、こちらこそ援けてほしい身であるのに、あってよいことではなかった。自分自身がリュウミンみたいなものなのに、わざわざ彼らの救済に出向いていくという図は、客観的にみれば、アホウ鳥、何を考えていたのかということになるのだろうが、そういうバカを平然とやってのけられるほどの楽天家であったことは、かえって他人の目にはおもしろく映ったのかもしれない。

 ふつうなら、食えないのだから、もっと金になりそうなことをしたらどうかと意見されるだろうし、現にそういう人もいたわけだけれど、これまたおもしろいことに、集ってきた人たちは、弁護士を除いて、ほとんど貧しい連中ばかりだった。

 学生はいうにおよばず、ゆたかそうな人はどこにも見当たらない、まさに手弁当というにふさわしい活動であり、それも三日と置かずに集って、さまざま話し合い、政府法務省とたたかう方策を考えていく、そしてその後はきっと二次会、三次会と、飲み食いの場を持つのが常で、とくに酒好きの我は、弁護士にくっついてさえいればいいとばかり、腰きんちゃくの如くになったのだった。

 これはもう呆れた話というほかないのだが、そういう弁護士との飲み会で、我がお金を出したことは一度もない。サイフは持っていないので取り出すわけにもいかないし、いくばくかの金は持っていたがポケットに手を入れたこともない。数年にわたる活動中はむろん、その後の付き合いのなかでも、自分で金を払った記憶が一切ないというのは恐ろしいことだ。

 たまにはボクが払いますよと、ふつうはいいそうなものだし、そうするべきなのだが、しなかった。一体何度、弁護士のAさん、B、Cさんと飲んだことか、数え切れないほどなのに、今日はカネがあるのか、あるなら少し出せといわれた記憶もまったくない。これをコツジキみたいなもの、といわずして何といおうか。

 弁護士たちは、みな若かった。まだ独立前の、居候弁護士(イソベン)として親分に仕える者もいたし、事務所をもつ人もまだ独立して間なしの、いずれにしてもそれほど豊かというわけではなかった。むろん給料はふつうのサラリーマンの数倍はあったから、とりわけ独身時代であった人は、我に飲み食いさせたところで懐が痛むというわけでもない恵まれた経済状況であったことは確かだ。

 が、そういう活動に手弁当で、しかも少なからずの持ち出しでもって携わるというのは、ありがちな利益追求型の弁護士にはなし得ないことであり、いわゆる人権というものに関心を向け、中には後にその分野でマスコミにも知られる存在となる人もいた。そういう彼らと交流をもち、一応の活動が終わってからも友人としての付き合いをさせてもらうことになる、そのことが我にとってどれほどの恵みになったことか。

 タダ酒を飲ましてもらったことだけではなくて、加えて、さまざまな事件の話や、弁護士の仕事のことなど、モノ書きとして関心のあることのあれこれを惜しげもなく教えてくれる、まさに情報提供者として存在したことが、後に我をいっぱしの賞へと辿り着かせた最大の因だった。

 その意味で、彼らとの出会いのきっかけをつくってくれたインドシナ流民には、こちらが感謝しなければならないのだろうが、その救済に立ち上がった弁護士たちもまた、生涯でこれほど興味深い事件にはめったに遭えないことを嗅ぎとる能力があったのだと、その後の彼らの成功をみるにつけても思う。弁護士になりさえすれば人生は順風というわけではなく、せっかく難しい試験に合格して船出をしても、食えなくて離脱してしまう人はいくらでもいる、という事実も彼らと付き合って知ったことだが、我の場合、せっかくもらった新人賞(佳作)の後がつづかない、印税もつきてもはやこれまでかと思っていたところへ、チャン・メイラン事件が立ち現れ、弁護士との交流がはじまり、そして一冊の本を出して、その後の人生をも大きく左右することになる。消えていく新人賞作家のなかでかろうじて生き残らせたものは、まさしく人との出会いの所産といってよいだろうか。

 余談だが、せっかく日本在留を勝ち取った者のなかには、さらに再び日本を去り、まさにリュウミンとなって他国へ流れていった者も少なくない。あれほど援けてくれた人たちに感謝していたチャン・メイランもまた、ある年、ある時期から、ぱったりと消息を絶ち、アメリカへ行ったというウワサも定かではなく、いまだに誰も、彼女のために国内外を奔走した弁護士ですら知らない。

 人は生きているかぎり、一区切りはあってもまだ先がある、一寸先はどうなるか誰にもわからない、という不確かな、危うい存在なのだろう。いつだったか、ササクラさんのことは忘れない、といってくれたメイランだったが、やがて日本を去ることに決めていたのだったか。たしかチャンパサック家というラオスの王族の娘だった彼女の数奇な人生を思えば、我もまた、ある意味で経済難民として異国へ流れ、かつて彼女が命がけで渡ったメコンの向う、彼女の故郷へビザ取りに出向いていることが何かしら因縁めいてもくる。人生は波乱に富んでいるほど、しんどいけれどもおもしろい。いまこの歳になって、そう思う。
2011.10.17 / Top↑
バンコクで洪水にまみれている(?)笹倉さんからメール届きましたので、転載します。(管理人)

===
こちらは、いまが洪水のピークらしいので、だんだん引いてくるでしょう。

この時期はしかたがない面があるのですが、政治家がODAの金を着服してしまったため、治水工事がストップしたままで、それさえあればこういうことにならない、おろかしい援助と強欲な政治家がもたらした災害ともいえます。

どこかの国の原発と似てますね。
2011.10.19 / Top↑
 いま、ふと思い出したが、わが恩師(暉峻康隆元早稲田大学文学部教授後に名誉教授・没)は、長い異国への旅に出る前、ワセダの文学部キャンパス前の一杯飲み屋で、イツキ君に会ってきたまえ、といわれたものだった。イツキ君というのが誰のことなのか、わからずにキョトンとしていると、イツキ・ヒロユキだよ、といわれて、あぁ、と一声発したのだったが、彼に会ってから出発すればいい、テルオカに会ってこいといわれたといえば会ってくれるよ、という。

 先生のおっしゃることはおよそ何でも聞いてきたつもりだが、それだけは聞けなかった。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いでエンタメ小説を世に繰りだしている有名作家であったから、とても我のごとき学生がのこのこと会いにいくことはできそうにない、それだけはムリです、とはいわなかった。はぁ、とだけ答えたと思うが、考えてみれば、テルオカの名もまた江戸文学では世にとどろいていて、いろんな歴史小説の作家が時代考証についておうかがいをたてたり、教えを乞うたりする存在であったから、イツキ君と呼ぶ相手もまた先生にとっては教え子のようなものだったのだろう。五木寛之はロシア文学科で先生の専門(国文科)とはちがっていたが、同じキャンパスの隣組みたいなものだった。

 それからちょうど十八年後、我が直木賞をうけたとき、TBSラジオの「五木寛之の夜」という番組に呼ばれることになるのだが、そのとき、五木氏に、テルオカ先生からそういうことをいわれたけれども、当時はとても会いにいけなかった(横浜からそのままロシアの船で出発した)、といったことを打ち明けたところ、ほう、そんなことがあったの、とおもしろがられたものだった。いわく、「青春時代に経験したものは、生涯、ずぅっと引きずるね」。

 しかり、我が海外放浪のなかで経験したことは、デビュー作のみならず、後々までも、インドシナ流民救済活動の記録から、外国人の踊り子を題材にした直木賞作品から、近年のミステリ小説『愛闇殺』に至るまで、ずうっと引きずっていることに、いささかあきれてしまう。

 小説家はしかるべき青春をもっている。

 これが我の自説だが、同じ考えをもつ同業者も少なからずいる。あのような青い時代がなければ、小説家になどなっていない。そういう作家がほとんどであることの意味するところは、多感な青春期をいかにすごしたかによって、少なくとも文学の素地ができるかどうかが定まる、ということだろう。

 それは、文章そのものの修業にも関わっている。書きたいものがあってこその文章であるから、当然ながらテーマが優先する。何をどのような意図でもって書きたいのか。それがなければ一行も書けない。それを元手というのだろう、膨大な人生の時間が書くという作業には必要になってくる。インドシナ流民に関わった時代、弁護士ほか運動に携わる人たちと過ごした途方もない時間は、青春の時代の延長線上にあって、いわば第二の青春といえたかもしれない。

 新人賞の佳作でスタートしたとき、あと十年、と三浦哲郎(故)にいわれたのは、けだし、その通りであったのだ。
2011.10.24 / Top↑
 ローマは一日にして成らず、とは言い古された諺だが、この世の「修業」と名のつくもの、すべてに当てはまる。その動かしがたい事実について、人はどの程度理解しているのか、これが問題だといえば、首をかしげる向きもあるにちがいない。そんなことは当たり前じゃないか、といいたいのだろうが、当たり前のことができる人とできない人がいる。ただ能力の問題だけではない、いろんな状況がそこには関わってくる。

 我の場合、小説家になるための努力は膨大であったが、それが必然であるだけの青春を経てきたということになるだろうか。そして、すでに述べてきたことだが、目的のためには犠牲がともなうことも確かであり、両得ということはないし、ないものねだりをした時点で失格、修業はそこでストップ、ふつうの人なみの生活に戻ることになる。

 修業に見切りをつけるときが来るのを、ある程度は覚悟していた。やっと一冊、インドシナ流民の話を書いて本にはなったものの、その後がやはりない。活動が一段落した八〇年代の半ば、各人はそれぞれの持ち場へと帰っていったのだが、我には阿佐ヶ谷の三畳間が相変わらずの寝床で、どうやって食べていくのかという問題はエンドレス、もはや馴れっこのテーマとなっていた。ビンボウに馴れてしまうと、人はそれなりの生きかたをするもので、最小限の生活の糧だけは何とか確保しつつ、日々、筆だけは休めることなく過ごすことになる。そして、自腹の酒は安酒と決めて出入りをはじめた酒場で、これまた思いがけない人との出会いをもつ。

 新宿はゴールデン街という飲み屋街。かつて、二丁目の赤線に対して青線と呼ばれていて、いわば公然の秘密としての売買が飲食ついでに行なわれていたところだ。それが戦後しばらくして、赤線の廃止とともに、ほぼ純然たる酒場街に変わったものの、建物の造りはそのままのところがほとんどで、戦前、戦中派にはレトロといえる街である。

 そこへはじめて行ったのは、まだワセダの学生だったころ、マエダというバーだった。そこに有名な作家たちが来るというウワサを聞いて、学友と出かけたのだったが、むろん客であるから飲ませてはもらえたものの、まだ若くて元気いっぱいだった前田さんは、若造が生意気な口をきくと灰皿をとばすことで知られていたから、おそるおそる遠慮しながら飲んだものだった。元新劇の女優で、知己も広く、いろんなモノ書きが銀座とはちがった雰囲気を求めてやって来る、当時すでに有名な店だった。が、学生の身分ではそうたびたび飲めるわけもなく、ながくご無沙汰をして、ふたたび出入りをはじめたのが、『東京難民事件』のあとだから、十数年ぶりだった。

 このマエダとの再会をきっかけに、ゴールデン街との本格的な付き合いがはじまるのだが、もう一軒、道筋は違うが、「クラクラ」という名の酒場があって、最初は誰と一緒に行ったのか忘れてしまったが、同じく常連となった。主人は外波山文明といって、劇団(はみだし劇場)を主宰する団塊世代の人間で、みずからも俳優として頑張っていたから、波長が合う部分があったのだろう。ここにもまた、マエダに劣らずさまざまな人間の出入りがあって、我がふたたび貴重な出会いをもったという、その人の名は、当時青春だった人たちにはお馴染みかもしれない。

 たこ八郎。本名、斉藤清作である。
2011.10.31 / Top↑

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