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 仲間はみな、たこさん、とか、たこちゃん、と呼んでいた。しかし、プロボクサーだった彼の昔を知る人たちは、清(せい)ちゃん、だった。

 清ちゃんは強かった。タフだった。いくら打たれてもビクともしない、ハードパンチャーが打ちつかれてしまうくらい打たれ強い。そのことが後々、彼を大変な目にあわせるのだけれど、ボクサーとしての現役時代は、それが売りだった。

 相手が打ちつかれたころから、逆襲がはじまる。あれだけ打たれた男が不死鳥のごとくよみがえり、ラッシュにラッシュを重ねて、ときにノックアウトしてしまう。そのドラマチックな展開に、ファンは酔いしれた。

 しかし、我がたこさんと出会ったときは、そんなことは知らなかった。出会いのきっかけは、やはり、はみだし劇場主宰かつクラクラ店主の外波山文明の縁だったが、戦後日本のボクシング全盛時代、誰にも負けないボクシング好きだった我のファンといえば、海老原博幸(フライ級)やファイティング原田(フライ級から世界3階級制覇)をはじめとする、当時、東洋チャンプはむろん、世界チャンプになったり挑戦したりする錚々たるメンバーだった。

 斉藤清作という名はしかし、我の記憶になく、それもそのはずで、当時、テレビのボクシング番組にはほとんど登場しない、しかし、メインイベントが早く終わったあとには必ず放映されていた前座の試合がほとんどだった。メインイベントに登場したのは、数回、彼が全日本のチャンプになってからだったが、それも記憶は希薄だった。

 要するに、後で知ったことだが、親友・ファイティング原田の陰に隠れて、彼は彼なりのボクシング人生と、その後を生きたということだ。

たこ八郎001


 いささか話は飛躍するが、我の名作!『昭和のチャンプ たこ八郎物語』にそのへんの事情がすべて書いてある。ために、ここでその生涯をなぞることは控えるけれども、我が彼と出会って、そのドキュメントを書きたいと思ったのは、彼の特異な生きざまに惹かれたこともある、が、それ以上に、たこ八郎という人との相性というか、我との相性が「愛性」といってよいほどのものであったことによる。

 なぜ、そんなに相性がよかったのか、わからない。これは男女の場合もそうだが、人間のミステリといってよいかもしれない。酒場クラクラで隣合わせて飲んでいても、とくにむずかしい話をするわけでもなく、酔いにまかせてとりとめもなく過ごすうち、もう一軒、うちの近くにあるから行こうか、と誘われるままに出かけ、酔いがまわって午前様になると、散らかってるけど、といってアパートの部屋へ、ころがりこんで夜明けを迎えると、ちょっと行こう、といってまた同じ店へ、まだ朝の六時だから、あの店(彼のアパートがあった新宿百人町の裏通り在)は七時までやっているから、といって出かける、たこさんは相変わらずショウチュウの水割り、我も合わせる、といった調子だった。

 そんな日にかぎって、撮影の仕事が入っていることも忘れていて、マネージャーから、もうシゴトがこないかもしれないぞと大目玉を食らい、ベソをかくことになるのだが、そういうたこさんが我は好きだった。
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2011.11.07 / Top↑
 作品に登場するのは、ボクサーの現役時代に関わる人がほとんどだ。が、我が知己を得たのは、彼の師匠であった俳優の由利徹氏やファイティング原田氏など、当時、クラクラの客たちやボクシング界、芸能界で活躍する人たちがほとんどだった。

 なかでも、女優のあき竹城は、たこさんにとって、その存在なくしては生きていけないくらいの人だった。その物語が完成、出版(集英社から当初『天の誰かが好いていた』と題)されて、さっそく彼女が読んだらしく、たこさんによると、いたく感動したからササクラさんに会いたいといっている、「すまないけど、会ってやってくんないかな」と、いうのだった。

 やはりクラクラで、当時、少し前に、カンヌ映画祭でグランプリを受けた『楢山節考』(今村昌平監督)で一躍スターになっていたあき竹城(むろんその前から日劇ミュージックホール出身の女優として活躍していた)と会った。そのとき、彼女がテレビに映る印象より小さくて、ざっくばらんで、気のおけない、たこさんと気が合うのも当然の、つまり、我とも波長の合う女性であることがわかって、要するに、その後の付き合いが保証されたようなものだった。

 そう、先を急げば、あき竹城と出会ったことが、再び我の生活をノリすることになる。そのころ、事務所に問題が絶えずに悩んでいた彼女に請われ、マネージャーとして動きはじめたのだった。サントリーミステリー大賞、つづいて直木賞を受けるまでの数年間、我が彼女の辣腕マネージャー(ずいぶんとギャラを引きあげてプロデューサーには嫌われた)であったことを知る人間は、芸能界でもあまりいない。

 それは措くとして、当時、週刊誌などで、たこさんとあき竹城との関係が取り沙汰されて、おおむね「恋人」のような推測だったが、まったくちがっている。たこ、たこ、と自分の子供のように呼んでいた彼女は、まさに彼の母親のような存在であって、男女の関係などはさらさらなかった。

 それどころか、たこさんが、アパートの部屋に鍵をかけないで寝るので、深夜、いろんな女性がしのびこみ、要するに夜這いをしてたこをおかすのだといって、我に、どうしたものかと相談したことがあったくらいなのだ。月に一度、たこさんとその周辺の人を招いて、ディナー・パーティーなるものを彼女のマンションで開くのが恒例だったが、その席で。

 いやはや、たこさんはそういう人だった。女性が夜這いをかけたい、かわいくてしかたがないという、我などは及びもつかない、うらやましいというしかない女性にもてる人だったが、あき竹城は母親だからおもしろくない、息子がおかされることにはガマンがならない、といったようすだった。おかされた本人はまったく記憶にない(酔っぱらちゃってるから)、というのだから、なんのモンダイもなかったのだけれど。
2011.11.14 / Top↑
(笹倉さんからメール届きました)
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 洪水は峠を越えてひと安心といったところ、当地域は幸い冠水をまぬかれました。

 結局、バンコク中枢部は一時水や食料が不足しただけでしたが、いつもながらの派手な報道によって観光客がこなくなり、経済打撃が倍加しているようです。

 小生の友人団体も予定をキャンセル、マスコミの功罪をつくづく感じます。バンコクは安全、これからの観光シーズンには安心してお越しを、と呼びかけておきましょう。
2011.11.20 / Top↑
 たこさんは、あき竹城といっしょにいるとき(およそ宴会のとき)がいちばん幸せそうだった。変なことをいえばバカといわれ、何かをしくじってはバカといわれ、一晩でいったい何度のバカを聞いたかわからないくらいのものだったけれど、それが我にはたのしくて、おそらく、たこさんと大の親友であった、赤塚(不二夫)さんの大ヒット漫画『天才バカボン』などは、きっと、たこさんの人間性をヒントにしているのだろうな、と思ったものだ。

 たこさんの葬儀で、鼻水をたらし、目を真っ赤にはらして、身も世もなく泣いていた赤塚さんの姿が思い浮かぶ。ほんとうに愛していた人の死でなければ、あのような泣き方はできない。自分が死んだら、一体だれがあのような泣き方をしてくれるのだろう、と考えてしまったものだ。

 その赤塚さんもいまは亡き人(二〇〇八年没)となったが、たこさんに死なれて(一九八五年没)からはひところの元気をなくしていたような気がする。

 赤塚さんのような人がいたというだけで、たこさんの存在はたいしたものだったと思う。むろん、その他周辺の人たち、クラクラの店主で俳優の外波山文明、「笑っていいとも」のタモリ、映画監督の山本晋也、歌手の友川かずき、葬儀に顔をみせて我の隣席にいた菅原文太(いい男というより人間味のある人だった)、岸本加代子と研ナオコ(ふたりともびっくりするくらい小柄だった)、ファイティング原田をはじめ古のボクシング関係者など、それぞれにその死を悼んではいたのだが。

 たこさんが外波山文明らと遊びにいった真鶴の海で溺死したとき、いのいちばんに電話で報せてくれたのがあき竹城だった。そのときのいきなりの声をいまも憶えている。

 たこが死んだ!

 えッ、と我は絶句して、それから事の次第を聞いたのだったが、彼女自身もまだ詳報は得ていなかった。

 その死については、いろいろと謎の部分がある。海べりで会食をして酒を飲み、いい気分になったところで、たこさんはみずから海へ、沖へと歩いていく。そのとき、外波山らはまさか彼が波にのまれ、溺死するとは思ってもいなかった。が、結果はそうだった。

 そのことについて、監督が足りなかったとして非難する向きがあったけれど、それはおかど違いというものだろう。彼をよく見護っていなかった、というのだが、子供じゃあるまいし、それはない。

 だが、たこさんはどうして、酔いのままに、海へ、沖へと出ていったのだろう、という疑問は我も抱いたものだった。
2011.11.21 / Top↑
 実は、その死の少し前、我はたこさんと一献かたむけている。

 そのとき、彼は、こういった。名前と顔が一致するのは、トバ(外波山文明をトバとたこさんは呼んでいた)と赤塚さんとササクラさんの三人だけになってしまった。つらいんだよね、清(せい)ちゃんなんて、呼ぶ人がいてもだれだかわからない。昔、ものすごくお世話になった人かもしれないけど、わからないんだよね。

 三人は極端にしても、忘却という病におかされていたことは間違いない。

 覚悟して沖へ出て行ったんだよ。

 あき竹城はそういった。パスポートもちょうど期限が切れていた。海へ行く前日、久しぶりに親友のファイティング原田を訪ねている。我に対しても、もう疲れたというふうなことをいっていた。人生に疲れてしまった、ということか。

 未必の故意、という法律用語がある。こういうことをすれば、相手が死んでしまうかもしれない、と思いつつやってしまうこと。たこさんは、みずからもう死んでもいいと思いながら、海へ、沖へと歩いていったのではなかったか。

 彼のボクサーとしての現役時代、壮絶な戦いの連続だった。もっとも思い出深いという、フィリピンでの戦いを物語のオープニングにつかったのだが、まさしく逆襲の勝利だった。あれほど打たれつづけた男が不死鳥のごとくよみがえったことに、人々は国籍をこえて狂喜、絶叫した。

 そのスタイルに、みずからのスター性をみて、実践しつづけたのは、ただ功利主義からではなかった。そうせざるを得ない、つまり、相手が打ち疲れたあとのほうが都合のいい、ある事情、肉体的な事情があったことについては、彼の現役時代を通じて、知る人はいなかった。(物語を読む人の興趣をそぐので、ここでは伏せたほうがいいか。)

 ために、彼のスタイルについて、こっぴどく批判する人がいた。日本で最初の世界チャンプになった白井義男氏などは、あんなのはボクシングではない、とまでこき下ろした。たこさんによれば、逃げ足を得意とする白井さんのボクシングなどボクシングではない、ということになるのだが。

 その現役時代、スパーリングの相手として、たこさん(斉藤清作)は海津文雄にお願いをする。

 当時、海津といえば、東洋ミドル級チャンプだった。そんな重い、パンチ力も格段にちがう相手に、スパーリングをお願いするなど、ふつうは考えられない。それも、遠慮なくひっぱたいてほしい、とお願いする。

 たこさんによれば、自分のタフ度を確かめたかったからだという。海津さんが本気で打ったとはいえなくても、そのパンチにびくともしなかったことはたしかで、それによって、みずからのタフを確信した。おふくろはボクを強い子に産んでくれたと感謝した憶えがある、と夜明け前の酒場で聞いた。

 そうして、ついに全日本のチャンプ・ベルトを手に入れる。ファイティング原田は世界チャンプ、自分は全日本チャンプ。それでよかった。
2011.11.28 / Top↑

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