このへんの話、友情物語も作品のなかに書いたのだったが、そういうことを話すたこさんの口調が我は好きだった。やっぱり、午前様になったり、朝が非常に早い(午前五時とか六時の新宿百人町の)赤提灯でのことだった。
原田の家の人たちが、みんな好きだったんだよね。兄貴にも世話になったし、家族みたいによくしてくれて、だから、彼を殴れなかったんだよね、ボクシングはやっぱり殴り合いだからさ。

 東日本新人王決定戦。準々決勝で、たこさん(斉藤清作)は親友の原田政彦(後のファイティング原田)とカチ合う。そのとき、笹崎(ボクシングジム会長)氏は、原田をスターにすべく、斉藤清作に棄権を申し渡すのだが、なんの抵抗もなく承諾したのは、親友を殴ることはできなかったからだという。それに、スター性は原田にある、という会長の考えはその通り、自分は全日本でいい、原田は新人王、そして世界へ行く、と決めたというのだ。海津文雄など同じジムの人たちは、ほんとうは斉藤のほうがつよい、原田と本気でやれば勝つだろう、と思っていたそうだが。

 たこさんと、よくジムへ通った。角海老ジム。そこで、サンドバッグを叩くたこさん(当時四十代の半ばから後半)は、まるで若者にかえったかのような凄まじさだった。これで後半にラッシュをかけられると相手はたまらないだろう、と思わせる強烈なパンチがサンドバッグを揺らした。笑っていいとも、でタモリを相手にアホウ役を演じているとはとても思えない、別人のたこさんがそこにいた。

 しかし、夜になると、酒、また酒の日々。身体が欲してしまう。アルコールなしでは一夜も過ごせない宿命がすくってしまっていた。

 パンチ・ドランカー。

 まさにドランカー、酔った人、という言葉の通り、打たれつづけた現役時代のツケが引退後に出てしまったことについて、たこさんは我に、何一つ、隠すことなく話してくれた。

 寝ていてクソすんだよね。

 そのときは、ほんとに絶望的だった。二度目の全日本チャンプの防衛に失敗したあと、かねてよりのあこがれだった芸能界へ、由利徹を訪ねて入門を許されたものの、寝小便はおろか、寝クソにまで襲われる。それがどうして復活して、たこ八郎になったのかも名作に書いたけれど、なんともしたたかな、打たれ強かった彼、そのものをみる心地がしたものだった。

 そう、大急ぎで付け足しておくが、由利徹(故人)はたこさんを非常な愛情をもって弟子としていた。同じ東北という故郷の英雄、由利徹がいなければ、たこさんも芸能界で出世することはなかったにちがいない。仙台育英高校出身の斉藤清作は、ボクシングで鳴らした高校時代から芸能界にあこがれて、いつの日か、由利徹に会いたい、弟子になりたいと思っていたのだった。

 ボクシングという過酷なスポーツを限界までまっとうし、その後はあこがれた芸能界で、再び、みずからの生き様を通してみせた。我がまだ海のものとも山のものともわからないモノ書きであるにもかかわらず、まさにハダカになってみずからをさらしてくれたことを、いま、あらためて何ゆえであったかと思う。
2011.12.05 / Top↑
 人の相性、という不思議なものだ。相性がよかったから、というしかないのだが、実際、言葉では表せない何かが働いていたことは確かだ。

 部屋の乱雑さたるや、びっくりするほどのものだった。いえた義理ではなく、我もひどいものだったが、それに輪をかけて、というか、足の踏み場もないとはこのこと、どうやってごろ寝をしたのか、憶えていない。が、それをきっかけに、彼の物語を書きたいと思ったのだから、人の心の動き自体がミステリといえるだろうか。

 ただ、そうした付き合いから生まれた作品であることが、その内容に大きく影響していることは確かだ。ふつう、ノンフィクションというのは、最初から書く目的で、取材や資料などの調べを行なうものだが、そうではなかったことで、また違った風味というか、独特の味わいをもたらしたような気がする。

 最初の出版元、集英社もこれはいける(売れる)んじゃないかと考えたようで、オビの推薦文も当時ハードボイルドで売り出し中であった北方謙三に依頼、なんと我の頭には10万部の数字が描かれていた。とらぬタヌキとはこのことで、いざフタを開けてみると、皮算用のみであったことが明らかとなる。

 なぜ売れなかったのかについては、いろいろと考えられるのだが、たこさんは当時、一介のお笑いタレント、テレビ(時に映画や舞台も)に出て人を笑わせている芸人であり、その人生を本まで買って読みたいという人が意外と少なかったこと、そして、それを執筆したササクラ何某がほぼ無名であったことが挙げられる。

 それと、もう一つ、登場人物を仮名にしてしまったことだ。斉藤を斉田に、原田を原崎に、といったふうに名を変えて、ノンフィクション・ノベルと銘打って出したこと。これについては、出版後、いろんな人から苦情が来たものだった。読者となった人のなかに、昭和三十年代から四十年代にかけての黄金期の日本ボクシング界をなつかしく思う人たちがいて、彼らが仮名にとまどったのである。どうして本名で記してくれないのか、これじゃ誰が誰だか特定できないじゃないか、というわけだ。

 すばる編集長の水城氏は、本の制作にはタッチしなかったのだが、仮名にしたことについて、バカ野郎といわんばかり、この作品は実名で記して何の問題もない、そうすべきだった、という。

 いわれてはじめて、そうだなと納得するのだから、我はまだ出来のわるい新人だったということだろう。
2011.12.12 / Top↑
管理人より:
笹倉氏ご多忙の模様で、今週は休載です。
ご了承のほどよろしくお願いいたします。
2011.12.19 / Top↑
以下、転載します。
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お詫び:すっかり時間の感覚をなくしていて、一週間がどれくらいの長さなのか、よくわからなくなっています。これを南国ボケというのか、老人性痴呆症の始まりなのか、定かではないのですが、シゴトにアナをあけたことは確かなようで、読者の方々には申し訳ありません。

アナにハタと気づいたのは、ラオスの首都ビエンチャンへのビザ取り旅行からの帰路、夜行列車に揺られながらラオス産の米焼酎をひっかけて、いい気分になりかけたころでした。こんどのビザは、EDビザ、つまりエジュケーション・ビザというもので、タイ語のお勉強に学校へ通う人に出してくれる滞在許可証です。

そう、ボケ防止のためもあって、そろそろタイ語の読み書きを習いに行こうと思い立ち、週に二日、一年間で200時間の講義を受けることになりました。その手続きやらラオス行きやらで頭がいっぱいであったことを言い訳にして、また来週から、がんばって続けていきますので、よろしくお願い申し上げます。
2011.12.23 / Top↑
 どうしてノンフィクション・ノベルと称して出したかというと、例えばたこさんが大まかにしか憶えていない部分(フィリピンのマニラにおける大逆転の死闘など)は、当時の記録が詳細でないこともあって、いくらかの推測、想像を交えざるを得なかったためだ。が、ノンフィクションと銘打って出された作品にしても、そのような作者自身の解釈を交えた部分はあるわけで、真実を違えない程度の作者の手さばきは許されていい、と考えるべきだった。

 たいして話題にもならなかった理由の第一は、それだったかもしれない。無名の作者だって、いいものには火がついて、どんどん売れていくこともある。その意味では、失敗作であった、といえるだろうか。

 たこさんには申し訳ない、という思いがあった、が、本人にとっては、本が売れるかどうかは関係がなくて、自分の半生を書いてもらったという喜びと感謝だけがあって、以降、親密な付き合いがつづくことになる。

 夜這いをする女は誰かと問うと、憶えていないといい、ハメたのかハメられたのか、わからないと苦笑、高倉健との共演はどうだったかと聞けば、オレよりいい男だった、と笑っておしまい。師匠の由利徹は、ボクシングをやっていたから間合いがいい、会話の間の取り方が凡人じゃない、とたこさんを評した。全日本チャンプとなって間もなく、弟子にしてくれと訪ねてきたたこさんに、いまはだめだ、降りたら来い、と告げた由利さんだったが、以来、後楽園ホール(日本ボクシング界のメッカ)には顔をみせて、たこさんを応援していたそうだ。

 その間、前述の如く、あき竹城と会ったことから、そのマネージャーになるという思いがけない成り行きにもなっていくのだが、そうやって食いつなぎながら、次なる作品を書くための準備もはじめていた。そう、マネージャーになる前は、池袋のストリップ劇場につとめて潜行取材(むろん食うためでもあった)、照明係として働く日々、それが後に直木賞を受けることになった『遠い国からの殺人者』の素材(これも弁護士から提供された事件記録が背景にある)をふくらますことになるのだが。

 幸いにして、マネージャーとしての仕事は主にスケジュール調整とギャラの交渉などで、さほど時間がとられるわけではなかった。付きっきりの者は、付き人といって別にいたから、遠方への大事な仕事のときは同行することもあったけれど(彼女を重用していた山城新伍<故>とはよく旅をしたものだが)、およそ都内の撮影所を時おり訪れる程度で、あとはモノ書きとしてのシゴトに時間を使わせてもらった。

 ただ、いつまでも、というわけにはいかなかった。竹城のキャラクターは替えがきかないため、忙しさが増すにつれて、ヒマがなくなっていく。食えるけれども、モノを書くための充分な時間がとれなくなっていくことに焦りを感じてもいて、このまま芸能界のマネージャーとしてやっていくならいいが、そのつもりもないため、どうしたものかと考える日々でもあった。

(後日、『天の誰かが好いていた』は、ノンフィクション『昭和のチャンプーたこ八郎物語―』として仮名を実名になおし、文庫化される。さらに、単行本として復刊<葦書房>されることになるのだが、この経緯はいずれまた。)
2011.12.26 / Top↑