人生には岐路というものがある。日常的な選択とは別に、大きな分かれ道、右へ行くか左へ行くかを決めねばならない時がくるものだ。それによって流れがまるでちがってくる。どちらが正しいかという話ではなく、みずからの意志に従って判断するほかはない、そして、結果についても自己の責任とするほかはない、そういう時が誰にも訪れる。これが大きな岐路だと認識できることもあれば、あとになって、あれがそうだったと思い起こすこともある。

 我のその時は、はっきりと、ここがショウブどころ、と察知できるものだった。前述のごとく、インドシナからの難民支援で知り合った弁護士たちとの付き合いの中で、モノ書きとして興味のある素材が彼らの担当事件から続々と生まれていて、とりあえず二つのテーマが取り組む対象としてあった、そのことが“ショウブどころ”の理由で、やがて竹城プロダクション(社長は竹田明子=あき竹城の本名)から円満退社することになる。

 このへんは、かつて食える会社を辞めてしまった時と似たようなもので、収入がなくてどうするの、という当たり前の心配を二の次にしてしまう楽天家の本領というしかない。

 そして、向った先は故郷<兵庫県>の親のところだった。当時、八〇年代の後半は、父母も高齢ながらまだ元気で、安月給で勤め上げた教員の長生き得、二人ともしっかりと年金暮らしをしていたから、決死の覚悟をしていけば落とせる、と踏んでいた。

 何を落とすのかというと、むろん金である。
 親の年金をむしりとる。どうせ使いきれない、余っているはず、それを当分の間、いただく。

 夕食の席で、我は切り出した。いま書いている小説は、あと一年かかる、ショウブできる作品だと思っている。それに掛かりきりになりたい。ついては、向う一年間だけ、食わしてほしい。

 親父は、ウーン、と唸った。齢三十八歳にして、親のスネをかじりにきた息子に、コマッタもんだといいたげに首を垂れてしまった。

 と、その時、そばで話を聞いていた母親が、出してあげるよ、と即断のコトバを放った。迷う父親を叱りつけて、出してやるようにと説得する。

 男より女のほうが太っ腹であることを知ったのはその時のこと、いや、戦争で何もかも奪われた(治安維持法、アカ狩りで奈良女高師<現・奈良女子大学>の学生は幾人も逮捕、行方知れずとなる者もいて、所持していた本をすべて処分した)ことが自称・文学少女を作家にしなかった理由だといっていた母親は、無条件に息子の希望を聞くだけのハラをもっていたということでもあったか、モノ書き援助に何の迷いもなかった。

 ヒモになれかった我ではあるが、よい母親をもっていた、ということは、やっぱりヒモ、ヘソの緒につながれていたのかもしれない。
2012.01.02 / Top↑
 これでダメならモノ書きをあきらめる、とまでいったと記憶している。これまで三冊、出してみたけれど、ペンで飯を食うことのむずかしさを思い知らされている。こんどのショウブ作がダメなら、別の道を考える。一年間だけ、を強調して頼みをくり返した。

 やっとうなずいてくれた父親に、見込みはあるのかと聞かれて、ある、と答えた。

 さあ、もう飯の心配はいらない。東京へ戻った我は、一日をいっぱいに使って、膨大な裁判記録ほか資料と取り組みながら物語を進めていく。資料は積むと一メートルはあったか、とにかく大量であった。

 不可思議な事件だった。

 資料を提供してくれた弁護士(守秘義務があるので名は明かさない)は、レイプで訴えられた男の側の弁護を担当したのだったが、最後まで、事件の真相には辿り着けなかったという。レイプなどしていないという男が一体どうして訴えられたのか、その謎に迫るのが小説のテーマだった。

 完成した原稿をみせる相手は、集英社でなければならなかった。このへんは我の義理がたさで、新人賞の佳作をもらってデビューさせてもらったところへ、まずは見せる、というのが筋だ。

 ところが、担当者は、色よい返事をくれなかった。

 すばる編集長だった水城さんは確か、そのころに退社して、石和鷹のネームで作家活動に入っていた(間もなく芥川賞候補、続いて『野分酒場』で泉鏡花賞を受ける)から、このへんの事情は知らなかった。

 担当者というのは、我のデビュー作の本を担当した片柳治氏<没>(当時出版部で後にすばる編集長となり、芥川賞作家・荻野アンナと結婚する)という人だった。前作のたこ八郎物語が売れなかったことも、我に対する会社の評価を落としていたのかもしれない。片柳氏とは時おり飲んだ仲、もう亡くなってしまったけれど、いささか模様眺めの人だった。すでに有名になっている作家にはつくす人で、そういうことを知らない我は、実にウブであったと思う。

 ショウブのつもりの作が「没」となったとき、我はひどく落胆した。もはやこれまで、と一晩酒を飲んでモノ書き稼業にワカレを告げようとした。

 ところが、別れられるかどうかはまた別モンダイ。酔いがまわったころに、別の会社、別の編集者のところへ持っていってみよう、と考える。

 人づてに向ったところが、文藝春秋という老舗。むろん、ダメもとのつもりだった。

 忘れもしない、後に出版局長になる人(小説の読み手として確かなものをもっていると評されていた)で、アベタツと業界で呼ばれる阿部達次氏に会ったことが、今から思うと、まさしく運命の転機だった。

 こんどは没ではなく、何と、これを次回のサントリーミステリー大賞(第6回・文藝春秋/朝日放送共催)の候補作にしたい、という。
2012.01.09 / Top↑
 一度地に落ちた作が救われて、天に昇った心地がした。そんな大賞をいただけるかどうかより、ショウブをかけた作が小説の読み手に評価されたことがうれしかった。

 アベタツさんの指示で若干の手直しを経た小説『漂流裁判』は、そうして候補作の一として公開選考会(ユニークな選考会として話題だった)の俎上にのぼることになる。

 聞けば、選考会は、親と約束した一年の満期ちょうどの頃に当たっていた。大賞の賞金は五百万円、プラスして本の出版(むろん印税も入る)、TV(朝日系)ドラマ化(この権利は賞金に込み)が決まっている。もし大賞を射止めることになれば、まさに起死回生、これまでのビンボウ暮らしにピリオドを打てるかもしれない。

 打ちたい、という欲が生まれたのは、我自身の凡人のほどを明かすものだが、きちんと面倒をみてくれた親の恩に報いたい思いがあったせいもある。父親がガンにおかされた片方の肺の摘出手術(神戸大学での大手術だった)をやることになっていたから、その前によい報告をしたかったこともある。

 文学賞の選考会は、ふつう密室で行なわれる。選考過程における委員の言葉、やりとりなどは、結果をふまえた「評」というカタチでしか表に出てこない。ゆえに、我の「すばる文学賞」におけるエピソードのように、あとで個々に口にされるだけである。それを「サントリーミステリー大賞」では公の場にさらけだし、選考の過程をあきらかにしようという試みがなされたのである。

 会場は確か、東京・赤坂にあるサントリー関係のビル内だった。一般客から業界関係者まで、千名ほどみえただろうか、我もまたアベタツさんと一緒に会場の一隅に身をひそめ、選考の成り行きを眺めるという、実にもってザンコクな時間を過ごすことになる。

 選考委員は五名、開高健、田中小実昌、都築道夫、田辺聖子、イーデンスハンソン。
 下馬評では、樋口有介の『ぼくとぼくらの夏』と我の『漂流裁判』のどちらかになるだろうといわれていた。

 ただ、開高健<故>が、まあササクラだろうな、とアベタツさんにはおっしゃっていたそうで、さらには田辺聖子がイチ押しで我の作であるらしいこと、そして、田中小実昌が我を推すつもりであるという情報が「マエダ」(前述のゴールデン街の酒場)の女将からもたらされていた。

 察するところ、前田さんが、学生時代から来ているササクラの名を出して、よろしく頼む、くらいのことはいったようである。

 このあたり、若干の情実がからむのは世の常というものか、かつてすばる文学賞のとき、秋山駿さんが、オレの生徒だとわかっていれば通してやったのに、と口にされたこともそうだが、こんどはマエダが味方についてくれる。コミさん、と愛称で呼ばれる田中小実昌(後にロス<米>で死去)のことを、コミ、コミと呼び捨てにするほどの間柄であった前田さん<故>がササクラをよろしく、といってくれたらしい。お前さんのこと、コミにゆっといたよ、とカウンターで聞いた憶えがあるのだ。そういえば、誰かといっしょ(確か中上健次<故>だったと思うが)の都はるみ(歌手)の姿もあったなぁ。

 だから、大いに期待がもてた。ひょっとすると、ラクショウ? と思いきや、とんでもない。胃が痛くなるような前途が待ち受けていた。
2012.01.16 / Top↑
 仲間の間では、伝説的な戦場カメラマンであった馬渕直城が亡くなった。昨年12月、報せをもたらしたのはバンコク在住のフリー・ジャーナリストの日下部氏だった。その日、比較的体調がよいので一人で温泉場へ出かけ、突然の異変を生じて帰らぬ人となった。以前からの糖尿が悪化、透析の身となって一年余り。インドシナの戦場を駆け巡った剛毅な男の、あまりにあっけない幕切れだった。

 我が最後に会ったのはその死の半年ほど前、バンコクの大衆レストランで、日下部氏と三人で夕食をともにした。そのとき、郊外にある自宅から娘さんを伴ってやってきた彼は、もうハイジンだよ、といって苦笑したものだが、実際、体調がすぐれず、あまり食欲もないようすだった。娘が腎臓をひとつくれるといっているから、移植も考えている、というので、いまどき、腎臓を患った親に自分の臓器を差し上げるなどという子供はめったにいるものではない、奇特な娘をもったことが経済的には恵まれなかった彼の大きな財産にちがいない、と思ったものだ。

 飲食がすすむにつれて元気を取り戻し、まだもう一冊くらいは本を出したいのと、まだやりたいことがあるので死ねないともいい、シゴトへの意欲だけは失っていなかった。残念ながら、娘から親へ命をつなぐはずの手術は間に合わなかった。

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在りし日の馬渕直城・2009年12月バンコク路傍レストランにて(撮影・筆者)


 現代世界は謀略で動いている、というのが彼の持論だった。表に現れるのは、その過程もしくは結果としての現象であって、その背後にはさまざまな策略や陰謀がめぐらされており、人々は容易に知ることができない。真実を知ることのむずかしさ(あえて知らせない為政者、権力者の実態)こそ、この世のやっかいさの最たるものだと、我も思う。

 冷や飯を食う(日陰の存在ともいえる)のは、常に反主流、もしくは反体制側である。豊かさと名声を得ようとすれば、権力を握った体制側に従い、取り入って、その分け前にあずかるほかはない。でなければ、個の実力、才能をもって道を切り開く以外にない、というのが我の、この歳にして辿り着いた真実である。

 馬渕直城は、インドシナ戦争を取材したジャーナリストのなかでは反主流派だった。主流派というのは、勝者の側、つまりアメリカに勝ったベトナムのインドシナ戦略に与する側である。彼がみずからにウソをつけなかった、つまり、ジャーナリストとして誠実であることを強いたのは、一九七五年四月のプノンペン陥落時、外国人ジャーナリストと共にフランス大使館へ一時避難をして以来、まさに革命の当日から目撃してきた数々の出来事とその印象ゆえであった。

 体制側ジャーナリス(本や写真集がよく売れている方々)からみれば、馬渕はとんでもない男で、ポル・ポトの虐殺はなかった、などといっている、一体何を根拠にそういえるのか、と批判するのだが、馬渕氏にいわせれば、そういうアンタは現場にいたのか、何をみたのか、という反論をもって対抗することになる。これは傍からみていると、水掛け論、いや不毛の議論であって、わが国のジャーナリズムの貧困、稚拙さ、国際感覚の未熟さを思い知らされるだけである。
2012.01.23 / Top↑
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『わたしが見たポル・ポト』馬渕直城著


 そう、それもまた謀略だった、と我も確信する。ポル・ポトだけを悪者にするための計略は、ベトナムとその傀儡(ヘンサムリン)政権によってきっちりとシナリオ化されていた。九七年のベトナムによるカンボジア侵攻で死んだクメール人犠牲者はいかほどであったか、膨大な民間人が巻き添えを食って死んでいったはずだが、その数は問われなかった。それはまた、敗者のアメリカにとっても都合がよかったのは、カンボジア爆撃での死者100万人ともいわれる犠牲者を、ポル・ポトが葬った人数に組み込んでしまえるためだった。

 そして、ポル・ポトの大虐殺、とわが国(のみならず世界の)ジャーナリズムを扇動、洗脳することに成功する。勝てば官軍、負けたほうは何をいっても通らない、強者の論理だけが通用することは、世界の歴史をみても明らかである。それがまるで真実であるかのごとく語ることは、勝者にとってはいとも簡単な話で、シャレコウベを集めて積み上げ(葬りもしないで観光客にさらしておくのもひどい話だが)、みんなポル・ポトの犠牲になった人たちだとやれば、あるいは壁いっぱいに犠牲者らしい人の写真を飾り、ギロチンなみの器具をそろえてジャーナリストや観光客を呼び込めばよいだけのことだ。

 むろん、体制側のジャーナリストに取材させる人や場所は、ポル・ポトに殺されたという人、当時の刑務所など、すべてお膳立てされたものであることはいうまでもない。革命にはきっと伴う粛清という名の死刑も虐殺の名で呼ばれ、その人は何ゆえに、誰に殺されたのか、シャレコウベの口は何も語らない。

 当時、ベトナムはカンボジアをわがモノとするために、どのような政策(南下政策)をもってしたのか、たとえば、多数の工作員がポル・ポト派を装って入り込んでいたといわれるし、ベトナム人がカンボジアの仏教僧にまでなってスパイ活動をし、また夜の商(娼)売はベトナム人女性と決まっているなど、七九年以降、首都プノンペンでは主な(おいしい)産業がベトナム人によって支配されていた(現在は全土にわたってそうだが)。

 あきれるばかりの成り行き、状況をみて、一時はカンボジア女性を妻とした馬渕氏が、知己を得ていたシアヌーク殿下や複数回面談したことのあるポル・ポト氏が、すべての元凶はベトナムである、とのたまった民族主義者たちに同情、同感の意を表したのは当然というしかない。彼は、ただ一人といってよいクメール語を自在に話せる日本人ジャーナリストだったから、ベトナムの宣伝にはのせられにくい男であったことも確かだ。
2012.01.30 / Top↑