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 方や、直木賞のほうだが、こちらはいわゆる「大衆」にわかりやすい「小説」であるから、あまりやっかいではない。選考委員の意見も従って、いいものはいいということで一致することが多い。

 かつて、我が三田誠広とやっていた自治労の文芸賞で、見解が異なったことはないと書いたと思うが、候補になる作品のほとんどが、わかりやすい小説だった。「大衆小説」とは、人に読んでもらうことを意識した小説、ともいえるだろうか。だから、自分本位の、自分にしかわからない言葉づかい、表現、というのが非常に少ない。

 むろん、表現というものには工夫をこらすわけだが、わけがわからない抽象的な言い回しとか、わざとわからなくしているかのような、例えば大江健三郎のように(ノーベル賞作家だが)、さっぱりわからない表現というものがない。

 人にはわからないということが、不思議なことに、文学におけるプレステージになり得ることについては、評論家なるものの存在と関わってくる。ある評論家によると、小説家なんてバカの集団、ということになるようだが(バカを評論しているお前はもっとバカだと言い返したくなるのをこらえたものだが)、この評論家なる人たちは、およそわかりやすい小説は扱わない。

 一般にはわかりづらい小説を論じることに意味を見出す人たちなので、むろんそれだけでは食えないために、大学の講師になったり、中には助教授(まれに教授)の地位におさまる人もいる。あんなものは小説ではない、と、ある高名な評論家がこき下ろした作品が直木賞を受けたことがあるけれど、実によい例というべきだろうか。

 とはいえ、わかりやすい小説を論じる評論家も少数ながら存在する。難解な小説を論じる人でも、幅広く大衆文学に目を向ける人もいるから、一概にいえないのだが。

 要するに、小説なるものに境界を設けること自体、ムリな話なのかもしれない。たまたま菊池寛が、芥川・直木賞を設定したことで、区別が意識されることになったけれども、その境界は時としてあいまいであること、作品によってはどちらの賞に入ってもいいようなものがあることは強調しておいてよいだろうか。
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2012.05.07 / Top↑
 わが恩人である田辺聖子は、芥川賞であるが、後に直木賞の選考委員になっている。境界はあいまい、の典型的な例といってよいだろう。純文学系の雑誌(すばる)からスタートした我は、当然ながら芥川賞のラインだった。当時、すばる文学賞の受賞者(我は佳作)、又吉栄喜が後に芥川賞を受けるが、それが順当な進路といえる。

 ところが、スタート地点がそういう文芸誌であっても、本質的にはどうなのかという話になると、我の場合、かなり大衆的なベクトルをはじめから持っていたように思う。我の受賞に、黒井千次(純文学しか書かない)が反対で、三浦哲雄が推したという事実がおもしろい。

 三浦さんは芥川賞の受賞者だが、大衆に振れた作品(『忍ぶ川』)での受賞であったことを思えば、我を推してくれた理由もみえてくる。つまり、『海を越えた者たち』に、私的作品とはいえ、大衆に受けるはずの何かをみていたのだ。つまりは、作品の傾向、感性において、共感するところがあったにちがいない。

 とらわれてはいけない、ということがここで一ついえるだろう。偏りはいけない、ともいえるか。人間というものの多様性、どちらにも振れてみせる多面性というのが、およその人にはある。が、これを受容して、自由になれない人がいるものだ。我の場合も、デビューしたときから何年間かは、芥川賞がほしい、などと思ったものだった。

 ほしいと思っても叶わない、思えば思うほど遠くなる、と先ほど書いたとおりだった。芥川賞どころか、このまま消えてしまう恐れのほうが現実的だったことも書いた。が、我には幸いにして「幅」というものがあった。人としての振幅の大きさが、こだわりから解放される機会を与えてくれたのだったか。

 インドシナ難民の話やたこ八郎物語(『昭和のチャンプ』)を書いたこともそうだが、その後、おもしろい裁判がある、という知り合いの弁護士のセリフに飛びついていったことからして、本質的には芥川賞ではなかった。膨大な裁判記録(壮絶なレイプ裁判だった)を読み解いて、それを小説(『漂流裁判』でサントリーミステリー大賞受賞かつ直木賞候補となる)に仕立てるには、他に食うための仕事をもっていてはムリだと判断し、親に援助を依頼したこともすでに述べたと思う。
2012.05.14 / Top↑
 いま思えば、勢いがあった。何ごとも成就するには、イキオイが不可欠である。

 ところが、この勢いというのは、そう簡単には生まれ得るものではない。小説家の場合、デビューしたときに行李一杯の原稿がなければ苦しい、とよくいわれる。つまり、没原稿であれ何であれ、すでに一応の完成をみた作品がそれだけストックされていなければ、後がつづかない。一作で消えていく人が多いのは、このためだといってよいだろう。

 純文学で、没、没、没、-------、を十回ほどもくり返し、とうとうダメな人もいれば(大衆小説に転向して成功した人もいる)、十回目でついに賞を射止めた人は、おそらく消えずにいるはずだ。賞をとった時点での力量で書きなおせば、きっとモノになる作品がいくつかあるはずだからだが、そういう一見徒労にみえる作業ができるかどうか、それも芥川、直木賞にたどり着くための条件、といってよいだろう。

 実のところ、我の受賞作『遠い国からの殺人者』は、当初、80枚ばかりの短編小説だった。それを文藝春秋に持ち込んで、『オール読物』に載せてもらうべく、知人の紹介で、ある編集者と会ったのがはじまりだった。鈴木文彦さん(ブンさんと呼ばれる業界では有名な方)だった。

 すでにデビューしていたとはいえ、無名に近い我のものなど、載せてもらえるかどうか、わかりはしなかった。が、いろいろ意見をされて、書き直すことになった。ふつう、書き直しを命じられたら、脈がある、とみてよい。望みがなければ、黙って返されるからだ。

 ところが、なかなかウンといってもらえない。確か二度ばかり書きなおして、今度はいいだろう、と思うと、やっぱり色よい返事ではなかった。そして、ついに「没」となる。載せてもらえない理由は、判然としなかった。無名の壁、かつ文藝春秋の壁はかくも高いか、厚いかと、我は唸った。
2012.05.21 / Top↑
 その当初は80枚の『遠い国からの殺人者』は、実は、『漂流裁判』より前にできたものだった。それが没となり、新しい作品と取り組んで、それが完成すると、また文藝春秋に持ち込んで、今度は、アベタツさん(ブンさんの親しい人だった)が手を打って、サントリーミステリー大賞の候補に、となるわけだ。

 このへんの前後関係こそが、運のウンたる所以で、もしブンさんが、80枚の短編を載せてくれていたら、我の直木賞はなかった。没になったときから、それを長編小説に仕立てるために、大改造の書きなおしをみずからの判断ではじめていた。このへんの根性というか、執念がなければ、決してたどり着けない賞であるというのは、我だけの実感ではないはずだ。

 『漂流裁判』が完成し、サントリーミステリー大賞の候補となって選考会を待つ間も、我は大改造中の作品『遠い国からの殺人者』の完成を急いでいた。前作とはまた違った意味で、何とかなるという確信があった。これまた、ある弁護士が提供してくれた資料で、新聞ネタ(三面のベタ記事だったが)にもなった事件が素材である。むろん、実際の事件はあとかたもなく、完全に小説化されているのだが、親しい弁護士の協力も得て、完成したときは、これはいけそうだという自信が生まれていた。

 実のところ、文藝春秋にはもう一人、ワセダの恩師(てるおかやすたか)が共通の編集者がいた。てるおか教授から、ササクラをよろしくといわれていた人で、といっても無名のうちはどうにもならなかったのだが、サントリーミステリーをとった時点で、しっかりと乗り出してきた。

 高橋一清という、名うての編集者だった。我が大改造をした『遠い国から~』をみせると、文句ひとつ、意見ひとつすることなく、本にする、との判断が下された。没になった80枚の短編作品が、500枚(程度だったと思う)の長編小説に化けていた。それが出版されて間もなく、次期直木賞の候補になった、との報告を受けた。
2012.05.28 / Top↑

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