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 80枚の小説を500枚の長編に化かす、というのは、これはもう至難の技といってよい。どうしてそういう芸当ができたのか、もう憶えていないが、ただ、気合いというか、没になった悔しさの反動というか、ハングリー精神のたまものというか、そういうものがなければ決して成しえない。

 そう、天からコトバが降ってわいたような、といえるかもしれない。むろん、それを長編に仕立てるためには、地道な努力も必要だった。

 これは後に賞を受けたときのことだが、受賞パーティーの席で、選考委員の渡辺淳一氏から、投光、やっていただろう、と断定的にいわれて、わかりますか、と問い返したところ、あれはやっていた者にしか書けないよ、と言い当てられたものだった。トウコウとは「光を投げる」、つまりストリップ劇場における照明係のことだ。

 実は、実際の事件の加害者は、踊り子だった。ストリッパー、と英語ではいうそうだが、我は、オドリコさん、という日本語のほうが好きだ。外国人の踊り子が当時、アジアや南米から少なからず日本に来ていて、舞台で裸を売り物に出稼ぎをやっていた。そういう時代を事件は象徴していたのだが、80枚の短編では、そのへんの状況が充分に書けなかった。

 没になって以来、それじゃ、それを書いてやろうと思い立ったのだが、書くためには、取材をする必要があった。

 それまでの人生で、ストリップくらいは見たことがあるけれど、その劇場の内部をのぞいたことなど絶えてない。そこで働くなどということは考えてもみなかったし、また働かせてもらえるとも思わなかった。

 しかし、これを長編にしようと決めたからには、それをやらなければ話にならない。さあ、困った、そんなことができるのかどうか。ストリップ劇場などという未知の世界へ、どうやって入り込もうというのか?
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2012.06.05 / Top↑
 いま、思い返せば、これは歴然としたコネ、たこ八郎(本名斎藤清作、元プロボクシング<フライ級>チャンピオン。由利徹門下のコメディアン、俳優。没)の関係筋で、当時、コメディアンとして舞台に出ていた人が池袋の劇場の経営者を知っていた。経営者もまたコメディアンとして名を出した人で、カタギの経営になる劇場として知られていた。

 そういう紹介がなければ、決して潜り込むことはできなかった。これまた天が味方をしてくれたような運のよさ、強運というしかない。仕事は、劇場(コヤ)が必要とすることのすべてで、むろん投光もその一つだった。社長が穏やかないい人で、売れない小説家の我を好意的にみてくれたことも、ありがたい職場(給料もむろんあったので)となったのだった。

 確か、十一時ころの出勤だったと思う。それから劇場の掃除などして、開場は正午、毎回(十日ごと)六名ほどの踊り子が「香盤」に従って順に舞台を務めるのだが、一人の持ち時間は確か二十分くらい(それが一日に四巡くらい)だったか。いつも弁当をもたされて自宅を追い出される爺さんから、女性のオシッコをラッパ飲みするのが大好きな若い男まで、それはもうこの世のものとは思えない(いや、人の世そのものともいえるが)光景が繰り広げられていた。

 照明係はすべて男性、我を含めて三名ほどが交代でやっていた。裸を照らす者と照らされる踊り子は、なぜか妙なキズナがあって、男女の関係とはかかわりなく、仲がよかった。それを“ピンスポのつながり”と書いて、渡辺先生に言い当てられてしまったのだ。

 おそらく産婦人科の先生に負けないくらい、見あきてしまうほど、といっても半年ほどの間だったが、しっかりコヤの奥まで取材して、作品に反映させた。長編に化けることができたのは、我自身が思ってもみない投光人間に化けてみせたことが大きい。ニンゲン、本気になれば何だってできるものだとよくわかって、非常にベンキョウにもなった時期だった。

 当時、親しくなった内外の踊り子たち(海外取材もやった)はその後どうしているか、まさか我の取材が直木賞作品に反映されたとは知るはずもなかったが、なつかしく思い出すことがある。踊り子ほど“バカみたいに可愛い”女性(男性にとってという意味だが、これは幅広い意味をもつ)はいないのではないか、というのが我の経験からの感想だが、あんまりコメントするのは控えよう。

 ホッカイドウとオキナワの娘がダントツに多かった、そういうだけでなんとなく納得してもらえるかもしれない。
2012.06.11 / Top↑
 それは余談として、ともかく我は、短編が長編に化けた小説でもって第101回(平成元年上半期)の直木賞を受けた。

 その時はどんな気持ちでしたかと、よく聞かれたものだ。それは嬉しかったですよ、という単純な答えを返しただけで、何だかボーとしてしまった、という本音は口にしなかった。スポーツ選手がよく、ガッツ・ポーズをとって勝どきを上げるけれど、そんなものではなくて、ただ、フワリと宙に浮いて、いい気分ではあるのだが、叫び声を上げる感情ではない。

 あえていえば、これで念願のサッカになれるかもしれない、よかったなぁ、と自分に呟くというか、記者会見の会場へ向かう電車の中で、涙がジワっと浮いたことを憶えている。

 むしろ、自宅で一緒に報せを待っていた周りの連中が、我が「賞を受けていただけるかどうかを問う形の」電話を受けて、「ありがとうございます」といったとたん、ウォー、と声を上げた、ということはあったが、本人は意外と静かな感動に浸っていた。

 報せを待っていたのは、作品の法律部分で協力してくれた弁護士の住田昌弘、インドのマザーテレサと日本人としてはじめて仕事をして帰国後はインドシナ難民救済のボランティアに加わった福井武,同じ難民救済活動に関係していた戦場カメラマン、押原譲の三名だった。

 候補になった人たちは、通常、そうやって思い思いに選考結果を待つことになる。前回の候補作『漂流裁判』の時は、新宿の行きつけの飲み屋で、サントリーミステリー大賞とのダブル受賞はないだろうと思っていたので気楽なものだったが、二度目は違っていた。担当者(前述の高橋氏)は、まあ、今回は見送りでも次でとりましょう、と微妙な発言をして、あんまり期待させない気遣いをされていた。酒を飲みながらの待機だったが、酔ってはいけないとチビチビやっていた、午後八時過ぎの報せだったと思う。

 ボーとしてしまったのは、その夜のうちの記者会見会場、有楽町の東京会館へ、阿佐ヶ谷から中央線で向かう間のこと、自宅が鎌倉で写真を撮るつもりもある押原氏といっしょの電車だった。

 会場へ着いてみると、受賞者はもう一人いて、ねじめ正一という、聞いたこともない男だった。なんでも、本来は詩人で、詩の芥川賞といわれるH氏賞というのを受けたことのある人間で、この度は、『高円寺純情商店街』という作品(新潮社刊)で受賞したのだという。

 ということは、我と阿佐ヶ谷の関係は深く(当時はすでに三鷹に越していたが)、彼が高円寺ということで、かつては隣り合わせ、これは奇遇だと思った。しかも、作品の名は高円寺~だが、本人は、いまは阿佐ヶ谷に住んでいる、というのでまた驚いた。
2012.06.18 / Top↑
 人の縁の不思議さは今さらいうまでもないが、我とねじめ正一もそうだった。世代的にも同じ、団塊のふたり、ただ、我は兵庫のド田舎育ち、ねじめは都の高円寺ということで、育ちや性格はまるで違っていた。

 が、さらに驚いたのは我が阿佐ヶ谷時代、三畳間に暮らして売れる当てのない小説を書いていたころ、おんぼろアパートからほんの一分もかからない、パールセンターという商店街に、ねじめ民芸店というのがあって、彼の奥さんがやっているという事実を知ったときだった。むろん彼もときどき顔をみせていたというから、商店街で時にすれ違うことがあったかもしれない。

 それはともかく、ねじめ正一の作品は、彼がはじめて書いた小説だった。小説家としてはまったくの新人で、本人もまさかそれが候補となり、受賞までしてしまうとは思っていなかったらしい。芥川賞ならともかく、直木賞で、候補が一回目ならふつう流される。たとえレベルに達していても、次作をみてみたいという理由でもって見送られる、というのがよくある例だ。

 むろん直木賞も新人賞であるから、はじめての作品が受賞してはいけいない理由はないのだが、当時の一般的な概念としては、すでに世に出ている小説家を飛躍させる目的をもった賞、と考えられていた。それが、詩では名が出ているとはいえ、小説では未知数の作家にこの賞を与えていいかどうか、というのと、内容的に賞には値しないと反対の声を上げたのが、十名の選考委員のうち、五名までいた。まさに真っ二つ、で、こういう場合はどうすればいいか、思案のしどころだった。我の作品は、一人の反対もなく、満場一致(こういうことは珍しいそうだが)で受賞が決まっていた。

 選考会場の新喜楽では、同じ日の同じ時間(午後六時ころからはじまる)に芥川賞の選考会も開かれていて、そっちの情報も入ってくる。それによれば、今回の芥川賞はナシ、と決定したという。これがそうではなく、一人でも芥川賞が出ていれば、ねじめ正一の受賞はなかった、というのが後に関係者からオフレコで聞いたことだった。

 つまり、芥川賞が出ないとわかった時点で、票が五分五分に割れたねじめ作品をどうするかの命運が決したのだ。このまま議論をつづけてもラチが明かないから、次作を見ましょう、というのがふつうながら、ササクラと二人の受賞にしましょう、となったのは、芥川賞が出なくて、直木賞がササクラ一人ではさびしい、という日本文学振興会の思惑がはたらいていた。

 ふたりずつ、四人が出る回もあるのに(前回の第100回もそうだった)、一人ではさびしい、というのは我にも納得がいく。ねじめがいてくれたから、いわば同期のさくらで、受賞パーティーの会場も華やいだことは確かだった。

 その意味では、ねじめはまったく幸運だったというしかない、我も運に恵まれたが、彼はもっとラッキーだったといえるだろう。
2012.06.25 / Top↑

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