そう、この賞は、ウンに恵まれなければならない。むろん、賞に値する作品を書くことが先にあるわけだが、それだけでは届かない。

 そして、そのウンなるものは、天から降ってくる部分と、自分で切り開く部分の二つがある、と我は思っている。どちらの比重が大きいかといえば、後者、みずから出来るだけの力をつくす、ほうだ。

 その賞が欲しいと思った人は、まず、東京に本社がある出版社の「文芸誌」に載るか(これはほとんどが芥川賞<ときに直木賞>の場合)、同じく東京の出版社(直木賞のほとんどがそう)から単行本を出すか、どちらかでないとむずかしい。

 芥川賞の場合、地方にも数ある同人誌に掲載された作品が候補になったりするけれど(マレに受賞例もある)、直木賞の場合は、例えばお金を出せば本にしてもらえる自費出版ではほとんど不可能である。

 芥川賞の場合、かつては文芸五誌といって、文学界(文藝春秋)、群像(講談社)、新潮(新潮社)、文芸(河出書房新社)、海(中央公論)という月刊誌に掲載された作品が対象になる、というのがほぼ業界の了解ごとだった。

 後にこれらに参入したのが、すばる(集英社)など後発の文芸誌だった。それらの誌のなかには、すでに休刊という名の廃刊になってしまったものもあるのは、どこの書店を探してもないことでわかるだろう。

 それはともかく、芥川賞が欲しければ、それら中央の文芸誌に作品が掲載されなければならない、と言い切っていい。そして、そういう文芸誌に掲載されるには、まず、それぞれの誌が設定している「新人賞」なるものに応募して、受賞もしくは佳作になり、担当編集者の期待に応えて、次なる作品を生み出さねばならない。
2012.07.02 / Top↑
 しかし、そうはポコポコと生み落とせないのが小説というもので、一作くらいは何とか、みずからの人生経験に材をとって小説に仕立てることはできても、次作をどうするか、何を書くかというモンダイに、新人は頭を抱えてしまう。そして、およそ消えていくことは、我自身の危機も含めて、書いたことがあると思う。

 逆にいえば、消えていく運命にあるから、その前に芥川賞をくれてやろう、ということもあるだろうか。実際、芥川賞をもらって、その後一作も書けなくて(何作かは書いた人もいるが)消えていった人は、歴代、数えていないが、半数以上にのぼることは確かだ。そして、消えていくのは当たり前であるという理由も、以前に記したことがあると思う。

 さらに、いま加えていうならば、消えていっていい、そのほうが幸せな人生を送れる、というと誤解されるだろうか。

 これも少し書いたと思うが、消えずに残っていくには、ふつうの人生を犠牲にしなければならない。もとよりの天才は別にして、努力をもって事をなすには、他人の思惑を気にしていては成しえない。ストリップ劇場の照明係は、立派な奥様(シット深くもある)を持っている男にはゼッタイにできない。これが何よりわかりよい例だろうか。そして、波風の立たない家庭を築いている人のほうがある意味で幸せだということはできるかもしれないのだ。

 あの時――、と我は思い起こすことがある。これでダメならモノ書きを諦めるといって父親に一年間の出資を願い出たとき、もし母親が、出してあげるよ、と即答することなく、そして父親を説得することがなかったならば、どうなっていただろう、と。

 あるいは、勝負作が大賞を受賞することなく終わっていたなら、おそらく、我は小説家とはまったく別の道を、まだ三十代の後半であったから、歩んでいたにちがいない。自死を選ばないかぎり人は生きていくしかないわけだが、どうしていたかは想像もできない。不退転の決意、というのがあるけれど、ダメの結果が出た後のことなど考えてもみなかった。そのときはそのときでまた考える、といったところだったか。
2012.07.09 / Top↑
 話を戻せば、芥川賞が中央の文芸誌に作品が掲載されることが条件なら、直木賞は、大衆雑誌への掲載作品、もしくは単行本が対象となる。

 ここでいう大衆雑誌とは、ひと頃、中間小説誌とも呼ばれた時期があった。それはいまも生きていると思うが、確か、五木寛之、野坂昭如氏ら(ふたりともに我が大学の先輩で、直木賞が弾みとなった)が「小説現代」や「オール讀物」など大衆文学の雑誌で活躍を始めたころに言われはじめたコトバだったと思う。

 中間とは娯楽(エンターティンメント)と純文学のチュウカンという意味で、便利というより苦肉のコトバだった。歴史小説、時代小説というのは以前からあって、これはれっきとした大衆文学で、明らかに直木賞の分野に入る。

 直木三十五(なおきさんじゅうご)の代表作は「南国太平記」であることからもそれはいえる。が、歴史モノ、時代モノではない作品については、どういうものが直木賞の対象になるのか、という一応の目安として、「中間」という言葉が選ばれたといってよい。

 その中には、ミステリー(推理)、ハードボイルド、冒険小説、SFといったジャンルも含まれるが、内容的に「中間」の要素を含んだものが賞の対象になった。娯楽のほうに大きく振れた作品の場合は、たとえ候補になっても見送られる可能性が高い。つまり、「文学的な要素」が多少なりとなければ話にならない、というのがこの二つの賞の特徴といってよいだろう。

 ただ、選考委員が十名もいるとなれば、票が割れるのは当たり前、というべきだろう。割れなかった我の作品などは例外、といっていいかもしれない。前にも記したように、ねじめ正一は五分五分に割れた。まさにシーソー、どちらに振れるか、そのときの状況によって、受賞か、見送りかが決することも記した。

 第101回は、芥川賞がなかった、という状況の中で、ねじめは掬いあげられたのだったが、しかし、それで彼がどういう人生を辿ることになるか、そして、それが彼に幸せをもたらしたかのかどうか、という話になると、我の場合と同様、なんともいえない、といわざるを得ない。
2012.07.16 / Top↑
 同期の桜とは、その後、何度か、同じ阿佐ヶ谷組として、水城顕(「すばる」元編集長で我を世に出した人。後に作家・石和鷹としてデビュー。故人)と三人でよく飲んだものだが、彼が直木賞を受賞したことで、同僚というか、同じ詩人仲間や評論家から、どれほどの目にあったか、それはもう大変なコトバの嵐だったという。

 オマエなんかがそんな賞を受けるとはけしからん、オマエはサギ師だ、ペテン師だと、さんざんな言いぐさでもって、非難ともやっかみともつかないコトバを浴びせられた、というのだった。それには、本人も実に参ってしまったそうで、別にその賞がほしくて書いた小説ではないのに、たまたま受賞してしまったおかげで、それまでの詩の世界が、その仲間たちが変わってしまったのだ。

 いやはや、我はいささか同情した。日本の社会は、そういう面でちょっと陰湿というか、他人の幸せを素直によろこべない人が多い。皮肉ったりシットしたり、いじわるをしたり、出るクイは打たれる、と諺のようにいわれるけれども、確かにそういうところがある。日本を出ていった人のなかには、そういう面が非常にいや、好きになれない社会だと口にする人がいるけれど、確かにそれもストレスを生む原因の一つにちがいない。

 ねじめの場合、そんなふうに人から罵られたものだから、一作で消えてしまうわけにはいかない、そんなことになれば、彼らの思うツボ、ほれ見たことかと拍手されるに決まっていた。

 ゆえに、何としても書きつづけねばならなかった。それはもう必死の思いであったようで、実際、会うたびに頬がこけてみえるほどだった。

 その点、我の場合はまだしもだった。デビューからすでに何年も苦労して、何作か世に出した後の受賞で、しかも二度目の候補であったから、まあいいだろう、と同業者も認めてくれて、しかもある程度のストック(書きためたモノ)もあったから、当分は悠々とやっていけたのだが、これが逆に油断を生じさせたといえなくもない。

 大変な目に遭ったねじめのほうが、むしろ反骨精神を発揮して、もうひとりの受賞者、我を蹴落としていくまでの勢いをもつことになる。

 つまり、我がまったく違った路線をいったことで、我よりはるかに有名になっていったのだ。第101回の受賞者はねじめ正一としか記憶にない人がほとんどであるほど、有名化と非有名化の大差をもたらしていく。その原因、理由とは何かを記すことで、またこの賞のおもしろい(恐ろしくもある)側面がみえてくるだろう。
2012.07.23 / Top↑
 古来、テレビや小説の舞台になった所がそれらのヒットでにわかに有名になっていく、ということがしばしばあった。直木賞というのは、その点、賞そのものの威力でもって、受賞作が舞台とした場所に影響を与えるわけだが、ねじめの場合はそれがあり、我の場合はそれがなかった、ということが一つある。

 ねじめ作品の舞台は、かつてそこにねじめ商店があった高円寺の商店街で、作品が受賞するまでは、そこは高円寺北口商店街と名付けられていた。が、受賞して以来、作品のタイトルと同じ名に変えられてしまった。ある日、電車(中央、総武線)の窓から駅の北口をみると、おや、と目を疑った憶えがある。いつの間に「高円寺純情商店街」に変わってしまったのか?

 方や、我の舞台はストリップ劇場。たとえ、ここが舞台だと公開されたところで、それが「××殺人者」の名に変わるわけがない。受賞した後、作品の中で出てくる酒の銘柄を作っている地酒のメーカーから、社長の感謝文を添えて酒が送られてきたくらいのものだ。

 受賞作は『オール読物』(芥川賞は『文藝春秋』)に掲載される(他社の本の場合は一部掲載)のだが、同時に、受賞者(我われ)と関係のある誰かとの対談記事が掲載されることになった。そのとき、我の相手は、ワセダの同級生で芥川賞作家の三田誠広、ねじめの相手は、読売ジャイアンツ監督の長嶋茂雄、だった。

 あとで、三田自身が苦笑して、これじゃ勝負にならないなぁ、と呟いたものだ。芥川賞作家とはいえ、さほど有名ではないことを自覚していた彼は、我を気の毒に思ったふしがある。ねじめが大ファンであった長嶋氏は、直木賞をとった彼の願いに快く応じたようで、読者の目の多くはむろんそちらの方へ向けられた。

 そうして、出足から、ひなたとかげの違いが出てしまったのだったが、加えて、テレビの威力というものをねじめは使い、我は使わなかった、ということがある。

 例えば、年末恒例の紅白歌合戦。これの審査員には、各界から、その年に活躍した人が選ばれて、合戦の前に紹介される。ねじめはこれに出て、その年の直木賞作家として紹介されるのだ。

 このとき、我は何をしていたかというと、十二月の半ばからカンボジアに向かい、民主カンボジアのイエン・サリ氏(ポル・ポト時代の外務大臣)らと会っていた。世界のマスコミから、殺人鬼と非難されていたクメール・ルージュの重鎮との会見は、我のその後の世界の見方を変えてしまう(マスコミはとくに世界政治においては真実を伝えていない)のだが、我が漆黒のジャングルの中、小さな小屋(草葺のゲストハウス)のベッドで蚊に刺されているとき、ねじめは華やかなスポットライトを浴びながら、紅と白の歌声を聴いていたのである。
2012.07.30 / Top↑