上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑
 それはしかし、時代の宿命というものだろう。理解の仕方としては、そう考えたほうがいいにちがいない。

 古来、文明の発達によって、人々の生活スタイル、モノの考え方は変わりつづけてきた。便利なキカイというものが発明されるたびに変化して、時代によっては産業革命(18世紀後半から)などというものも起こり、英国が世界を制覇するにいたる背景をなした。

 テレビにしろ、クルマにしろ、要するにキカイなるものが人間社会を変えていったという事実をみれば、テレビが発達して、人の頭がいささかハクチ化したところで、それはやむを得ない、押しとどめようもない現実なのだとみてしまったほうが、負け犬の遠吠えにならなくてすむだろう。かしこい処世というのは、おそらくそういう無常の真、すなわち仏教にいうところの「縁起」を理解することだ。

 しかり。時代は動きつづけ、変化を繰り返し、昨今はまたどういうことになっているかというと、ITの時代、それも物すごい勢いで、これまた世界制覇の野望にみちた人たちが驀進している。

 そこでモノ書きが不要になったかというと、そうではなくて、コンテンツなるものがなくては商売にならないから、息を吹き返す可能性が出てきた。本が売れなくなったと嘆いていた人たちも(出版各社をはじめ)、電子書籍とか電子雑誌という媒体をもって復活を試みている。

 テレビにハクチ化されてきたことを反省する人たちや、はじめからテレビをバカにしてきた人たちが、コンピューターというスーパースターの登場に飛びつき、とくに若い世代はあまりテレビを見なくなってしまった?

 いまや、子供でも学校から帰るとパソコンの前に座り、例えば読みたい本を探しだす、あるいは画面上で本を読んだり、ゲームをしたりする。
スポンサーサイト
2012.10.08 / Top↑
 実は、我の作品もいくつか電子書籍として売りに出され、クリックを待っている。以前にも記したかもしれないが(もう何を書いたのかも忘れてしまっている)、まずは直木賞作品の「遠い国からの殺人者」が文春ビジュアル文庫に入り、続いて、サントリーミステリー大賞の「漂流裁判」が同文庫で読めるようになった。おもしろいことに、ヒット(つまりクリック)の数は、直木賞を逃した「漂流裁判」のほうが多い。

 実際、直木賞作品が選考委員の万票でもって通過したにしては、アベタツさん(前出・我のサントリーミステリー大賞時の担当)によれば、歴代の直木賞作品の中で最低(!)の売れ行きだった、というから、わが国民の多くがもう、そういう社会派的なものに目を向けなくなってしまった(松本清張の時代<本の天下だった>と違って、マスコミも話題にしなくなった)、貧しい国からの出稼ぎ女の哀しい話など聞きたくもない(ページに文字がぎっしり詰まっているので手に取っても棚に戻してしまうのだと嘆いた、テレビの売れっ子・立松和平の話もそうだったが)、まさに平成元年の平和ボケの、ハクチ化の結果が出たというほかなく、やがて家まで新築してしまったねじめ正一(ライトタッチの「高円寺純情商店街」はすばらしい売れ行きだった)との歴然たる差が、まさに時代を反映していたといえるだろうか。
2012.10.15 / Top↑
 だが、時代の流れだけは予測がつかない。平和ボケ、テレビ呆けを進行させて幾年月、気がつけば、自民党の長期政権のなかで、50基近くもの原発が日本各地の海岸線を埋めてしまっていたという恐るべき現実に、やっと気づいたのが近年の地震による大災害だった。

 石原慎太郎はいち早く、「天罰」という言葉をつかってマスコミの批判をかったそうだが、もし大宅壮一が生きていれば、どういうだろうかと想像すれば、やはり似たような、いや、もっとシンラツ(辛辣と書く)な台詞を口にしたのではないだろうか。「いますぐテレビを消せ、それですべてが解決する。国民を白痴にする、よけいな電力はいらない!」とでも?

 石原は、批判を食らって前言を撤回したそうだが、このへんがやはり彼も日本の政治家の域を出ないのかな、と思ってしまった。

 天罰といって何がわるい、その通りじゃないのかね?

 我なら、そう反論するだろう。もっと真意をじっくりと国民に説明すべきだった。

 テンバツは何も被災者に下ったといっているのではない。そうではなくて、平成日本の状況に対する天からの罰、だ。つけっぱなしのテレビ、誰もみていないのに点いているテレビがいったい日本全土にいくつあるだろう。

 電車の冷房が嫌いだった我のような人間は、扇風機の車両があれば乗るだろうし、それもない車両は窓を開ければ十分だろうと、そのほうがはるかに爽快で健康的だろうといいたい。が、そういう意見などまるで論外の世の中になっていること、それ自体に問題の本質がある。

 タレ流し、使い放題の無駄と贅沢が原発の必要性を説く政治家と電力会社(および電気製品をつくる会社)に味方して、国民はまんまと危険な落とし穴へと導かれていったのだ。

 が、そのことに気づくことなく、無駄と贅沢を増長させてきたことにこそ、天の罰が下った、というべきなのだ。
2012.10.29 / Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。