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 その意味では、地震と津波と原発破壊、それによる被災者は、たまたまそこに住んでいたがために、本当は日本という国と国民のすべてに下るべきテンバツの、実に運の悪い犠牲者になってしまった、といえる。気の毒というしかない、ゆえに、たくさんの義捐金が集まったともいえるだろうか。

 我もまたしっぺ返しを食らうのは当然のことで、大災害に先立つこと六年余(2005年)にして日本を去ったのは、細かくみていけば、まさに一足先にテンバツを食らった結果とみて一向に差し支えない。本が売れなくなった日本の状況(ハクチ化の結果としての状況)は、ひとりの遅筆のモノ書きを生き延びるために海外移転へと向かわせた最大の原因だった。

 ごく一部の売れっ子やうまくテレビっ子や政治家に転向した者は別にして、大多数のモノ書きは、それこそペンだけでは飯が食えない、食うためにはみずからの健康もかえりみず、必死に、くだらないモノも含めて書きちらさねばならない。そんなことをすれば、我の場合、命がいくつあっても足りないことは明白だった。

 それでなくても不健康になりがちな(神経の使いすぎ、飲みすぎ等の不摂生もある)仕事であるから、生活のために書く量を増やすことほど危険なことはない。

 実際、ムリをして健康を損ない、若くして死んでいったモノ書きは、あの人もこの人もそうだ(むろんシゴトのストレスだけではないだろうが)といえるほどなのだ。森瑤子、中上健次、中島梓(栗本薫)、立松和平、……(まだいるが南国ボケで名前が出てこない)、彼らもまた、ある意味で、わが国の状況へのテンバツに相当する犠牲者といえるかもしれない。
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2012.11.05 / Top↑
 かくいう我も、テレビというものを見なかったわけではなく、ずいぶんと見たほうだと思う。我が家にそれがやって来たときは嬉しかったと書いたが、それ以来、ラジオにとって替わったそれに目を奪われて、抗いようもなく流され、毒されていった。思い起こせば、それを見て楽しんでいた小学生から中学生にかけての数年間で、我が家の前を流れる川に群れていた魚介類が完全に死滅してしまう。経済の成長とテレビ(その他のキカイ文明)の発達は歩調を同じくして、工業排水という毒ぶつのタレ流しもまた平然と行われていたというわけだ。

 そう、まさにタレ流しだった。テレビ放映も以降、それがますます増量、加速して、それら(テレビのみではない)の電力を供給するため、全国各地にダムが建設されて、たくさんの町村が湖底に沈み、建設工事の犠牲者とともに消えていった。東海林太郎(しょうじ・たろう)の歌った「湖底の故郷」を知る者はもうほとんどいなくなったが、ふるさとを失った幾多の日本人は、その歌を聴くたびに涙を流したといわれている。(「湖底の故郷」は、東京都の奥多摩湖<小河内ダム>をモチーフにしているが、歌詞には固有名詞は出てこない。興味のある方は、ネットでチェック!)

 毒物の垂れ流し(いわゆる公害―水俣病など)で正常な生活や命を奪われた人たちはなおさら、無駄な電力(のみではむろんないが)を使ってはばからない昭和の高度経済成長に浮かれた人々を天から呪っていたにちがいない。テンバツの意味は、ここにもある。

 如上のごとく、我にはテレビを全否定する資格はない。その功もあったと認めねばならない。とくに、スポーツが好きであったから、居ながらにしてそれを楽しめることは何よりだった。一時は芸能界にあこがれたことがあったし、テレビ局の友人もいたし、芸能人とも付き合ったし、自分の原作のドラマ化を歓迎もした。我われの世代は、月光仮面にはじまるところの、まさにテレビとともに成長してきたようなところがある。ために、それを悪くいうばかりでは、それこそ裏切り者めといわれてしまいそうだから、テレビの「功罪」といっておこうか。
2012.11.12 / Top↑
 ここまで書いてきて、作家の藤本義一死去の報が飛び込んできた。テレビの悪口をいっている間に、いや、功罪といったとたんに、我自身がファンでありお世話にもなった人が亡くなるとは、人生にまた一つ哀しみと寂しさが増した心地がする。

 闘病中の藤本氏に、テレビによる国民ハクチ化の話が聞こえたはずはないが、おい、ササクラ、それは言いすぎだろう、といさめる人がいて、ハイ、と答えられるとすれば、氏をおいてほかにない。同県人のよしみもあって、我の直木賞受賞バーティー(大阪で作家の若一光司が主催)に駆けつけてくださって以来の付き合いだった。

 とりわけ、我が抱えていた池永(正明)復権モンダイについては、何かと相談にものっていただいた。そのために催した講演会にも、タダみたいな値段で引き受けてくださって、そのときの演題が阪神淡路大震災で避難所暮らしをしていたときの体験談だった。これには、聴衆は居眠りをしているヒマがなかった。

 倒れてきた自宅の柱が10センチ、氏の頭を外れてくれたのはよかったが、肩の肉を打たれて整形病院通いを強いられたとき、筋肉というのは実は医学的にわかっていないのだと医者に聞かされてガクゼンとしたという話や、有名な神戸の色町の老女将は有名な人物にまつわるおもしろい話をたくさん聞かせてくれたが、それが誰であったかは最後まで決して明かさなかった、立派な人だったという話など、実に味のある講演であった。

 いつだったか、新幹線のなかでばったり会って、大阪に着くまでしばらく話したこともあった。昨今の若者はおもしろいことをいう、藤本さん、そういう髪にするのにどれくらいの染め代がかかりましたか、と問いよるんだ、これは染めたんじゃない、天然だというと、びっくりしよるんだな、そういって笑っておられたのをよく憶えている。いくら金を出してもこんなふうには染められないだろうと思えるくらい、実際に目にする氏の髪は、やや黄金をまぜたような見事な銀髪だった。

 我も当時は7割がたはすでに白かったが、いつかこういう髪になれないものかと思ったものだった。いまはもう9割がた白いけれど、とても氏の色にはかなわないこともあって、坊主にしてしまった。(藤本義一追悼・つづく)
2012.11.19 / Top↑
 氏がイレブンPMという番組の司会をやっておられたころ、それだけは欠かさず見ていた。日本テレビ系の午後11時スタート、穏やかな物言いのなかに、機知、ユーモアに富んだ、見ごたえのある番組だった。我の恩師、暉峻康隆(てるおかやすたか・当時はワセダの名物教授として「女子大生亡国論」等で名を馳せていた)もゲストとして招待されたことがあったから、それだけをとっても、後に小説「鬼の詩」で直木賞作家(当時は放送作家の肩書き)となる藤本氏の意気が感じられる番組だった。

 これもいつだったか、氏と話し込んだとき、そのイレブンPMにまつわるエピソードを聞かされたことがある。氏の人気を横取りしようとして、日本テレビのライバル社が、倍のギャラを出すから来てくれ、といって引っこ抜きにかかったというのだ。なりふりかまわないゲンキンなテレビの内幕ドラマだが、氏はそのとき、いささか迷った末に、誘いにのらなかった。

 むろん、日テレのスタッフも、某社が氏を引っこ抜きにかかっている事実を知っていた。ところが、それを氏が正式に断ったことから、それまで以上にスタッフとの結束ができたのだと、長寿となった番組の裏を話してくださった。

 いい声を持つ人だった。人に頼まれて講演会を催したときは、300人くらいの中ホールだったが、マイクなどはまったく要らなかった。氏の声と比べると、どうしてこんなひどい声の人がテレビに出てモノを言っているのだろう、と感じることが今もある。耳に心地よい声というのか、生の声はやや太く、やや低い、こんな声でささやかれると女性はいちころだな、と思えるほど、艶のある、銀髪なみの声音だった。

 我の父親がやはり氏のファンで、一度、共に食事をする機会があった。それから数年後に父は亡くなったから、数少ない親孝行の一つだったか。

 終生、テレビにはしっかりと出た藤本氏と、それには出ないと決めていた我がけっこう仲よしだったという事実は、おもしろいパラドックスかもしれない。

 そういえば、氏は、我のことをササクラ君と呼んだ。「君」というのは、本来、敬意を表する語であることを知っている日本人はどれくらいいるだろうか。あッくん、は従って、最高のニックネームなのだ。

 そう、直木賞の正賞である銀時計の裏には、第71回直木三十五賞藤本義一君、と記してあるはずだ。我はそれから30回後(15年後)、第101回直木三十五賞笹倉明君、と刻印してある。生活に困って質屋に入れようとしたところ(100万円くらい貸してもらえるらしい)が、いち早くそれを察知した姉が、質流れをすることを恐れて引き受けてくれた。流れない人(姉)のところに預けてあるんです(実際に質入れして流してしまった直木賞作家もいる)というと、うなずいておられたが、藤本氏もまたわが国でのモノ書きの生活のタイヘンさ、不安定さを折りに触れて喋ったり書いたりされていた。

 世が誤解をするのは、超売れっ子の億という収入をみるからで、それがごく一部で、一握りもない(5本の指もない?)事実については、およその作家が異口同音であるはずだ。おそらく、藤本氏も晩年は日銭を稼ぐために、出たくもない?番組に顔を出しておられたのかもしれない。それともTV人間関係のシガラミゆえか。

 藤本大兄の冥福を祈る。異国の空から、合掌。
2012.11.26 / Top↑

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