人間がもっとも苦手とするものは、欲のセーブ、コントロールだというのがぼくの考えで、以前にも、それがもろもろのモンダイや不幸の源にもなっていると書いた。放っておくとキリがない、際限もなく追求してしまうのが欲なるもので、天井知らずの権力欲のせいで、国王や大統領が失脚、逮捕、ときに処刑されたりもする。

 個々の人間でいえば、マルコス大統領夫人のイメルダが失脚時、3000足余りの靴を宮殿に置いてアメリカ(ハワイ)へ逃げた話を思い出すけれども、食、性、金、名誉等の欲望から逃れられないのが人の常なる有様。これをどうするかを説いて聞かせるのが、例えば仏教の、ホドホドがいい、行き過ぎはよくない、という教えだ。足るを知る、というのか、ポー・ディーという言葉にはそれが含まれていて、過ぎたる欲を戒める。

 タイという国は、国民の大多数が仏教徒(上座部)で、子供のころから、その教えを聴いて育つわけだけれども、それを守れるかどうかはまた別の問題であって、もろもろの教えをすべて守って生きている人は非常に少ない。むしろ、守れないことのほうが多いはずだ。だからといって、咎めを受けることはなく、守れなかったことを告白する(キリスト教の告解のような)必要もない、あくまで個人の自主性にまかせる、というのであるから、非常にゆるやかな、寛大な宗教だといえる。

 むろん、教えはないよりあったほうがいいわけで、それによって精神的な歓びや救いを得ている人もまた少なからず、なのだが、守れない人たちが大勢いることもまた、絶え間のない犯罪(殺人や盗みも多いし、飲みすぎによる酔っ払いも多々)に現れているし、肥りすぎた人々の姿からもいえることだ。
2013.05.06 / Top↑
 そして、皮肉なことに、人々にホドホドを説く僧侶自体が、ここにきて肥りだし、テラワーダ(上座部の仏僧界)でも問題になっているという報道に接したときは、う~んと唸ってしまった。

 この国では、人(男性のみ)が仏門に入るとき、いちばん大変なのは、満足に食べられないことだといわれてきた。ふつう、午前中だけ、一回か二回、朝の托鉢でもらってきたものを食した後は、次の日の朝まで、お茶、コーヒーなどは許されるものの、食事というものができない。

 ために、通常は仏門に入れば体重が減る。体験入門した人の手記などをみれば、10キロはゆうに減り、スリムな身体になったと書いてある。が、それはひと頃のタイにおける話で、いまは必ずしもそうではなくて、肥った僧がいるという事実は、ぼくが毎朝出かけるコーヒー屋さんからの光景を眺めていると、よく納得がいく。

 人々の朝は早く、コーヒー屋さんも午前6時には開く。近くのホェイクワン市場(まさにバンコクの胃袋)は午前5時からで、その賑わいはそのまま通りにあふれて、午前7時ともなると、近くの寺院から托鉢にくる僧侶たちとそれに応える庶民の、いわば一大托鉢絵巻が繰り広げられる。

 それぞれの僧にはお付の者がいて、人々がバート(丸い供物受け容器。タイ貨幣のバーツはこれから来ている)に入れたり乗せたりしたものを傍らから掴みとり、大袋に入れていく。ほんの百メートルもいかないうちに、大きな袋が中身を増して、お付の者もいかにも重そうに足を運ぶことになる。その僧がその日(午前中のみ)に食べる量としては明らかに多すぎて、こんなにもらってどうするんだろう、と思いたくもなる。

 人々がバートに入れる食の種はありとあらゆるもので、基本的には飯、菜、果物、ジュース類が主だが、何を入れてはいけないというルールがない。ために、中には、肉の串焼きや肉ダンゴの油揚げを、それも路傍で焼き揚げた熱々のものをそっくりバートに入れる人もいる。そんなものを本当に食らうのだろうかと、ぼくなどは思ってしまうのだが、与える人にとっては、供物をすること自体に価値があるわけで、食べてもらえるかどうかは関係がない。実際、大量の食べ残しが出てしまうため、一部は食うに困った人への施しにされることもあるようだが、ほとんが捨てられる。

 残りは惜しげもなく捨てられる(捨てるしかない)わけだけれど、それでも、好きなだけ食べることに、一部の僧はためらうことがない。遠慮なく、腹一杯いただけば、午後には何も食べなくても充分なカロリーを得ているはずだ(僧は読経や読書をするが、運動することはほとんどない)。が、問題はそれのみにあらず、昨今は、僧侶がいろんな「御呼ばれ」にあずかることが多い。

 先ごろも、知り合いがレストランをオープンするに際して、お寺から僧侶を呼んで、商売の無事と繁盛の祈願をしてもらったのだが、それが終わると、ふだんの供物以上のご馳走が肉料理も交えて待っていて、このときとばかりに沢山食らう僧が少なくない。それやこれやを総合すれば、結局はカロリー過多となっていることは、肥った僧が増えている、それも修行の道に差し障りが出るほどの肥満が増加している事実が証している。
2013.05.13 / Top↑
 肥ることは、すなわち「俗化」することなり。

 というのが、ぼくの考えだ。むろん、体質的に何を食べても肥ってしまう人には同情する。それはやむを得ないと思うが、いわゆる「習慣」的にどういう生活をしているか、という点に限っての話だ。

 俗化については、先に述べたように、禁欲を旨とする僧ですらも(お呼ばれの日は特に)たらふく食らってしまう恵まれた環境に抵抗できないのだから、ましてや庶民は、ふところが暖かい以上は美味しいものに食らいついて飽くことがない。

 キー・キァット、という言葉がある(ขี้เกียจをカタカナにするのは非常にむずかしいのだが、一応)。怠惰な、という意味である。

 タイ人の気質を表す言葉として、これは代表的なものの一つとされてきた。行きつけのコーヒー屋さんでも、女主人は、何かにつけて、キー・キァットというタイ語を発する。例えば、店を前ぶれもなく休んだ日の翌日、ぼくが訪ねて、昨日はどうして休んだの?

 尋ねると、およそ、キー・キァットなる言葉が返ってくる。マイ・サバーイ(体調がわるい)というときでも、キー・キァットをつけ足して笑っている。少しくらい体調がわるくても働く人とちがって、彼女はすぐに休みをとる。その理由をみずから「怠けものだから」というのである。

「怠惰」とか「怠けもの」いう日本語はしかし、ちょっとキツすぎるかもしれない。それは確かにタイ人の気質を表していて、ひと昔前まではぴったりだったかもしれない、が、昨今は、その特徴が薄らいできたように、ぼくには思える。
2013.05.20 / Top↑
 タイが経済発展をする前、70年代までは、貧しさ(質素といったほうがいいか)=怠け性、という図式が成り立っていた。あくせくと働かなくても食ってはいける、モノは今みたいに何でもあるのではなかったが、生きていくための衣食には事欠かない。住む家がなくても凍えて死ぬこともない。およその人々は、たとえ怠けて仕事をしなくても、明日も(また次の日も)生きていける確信をもっていた。

 とりわけ男たちはそうで(女たちの働きに頼って)、路傍で何もせず、ぼけっとして、ただ時を過ごしている姿がしばしば見うけられた。まさにキー・キァット、怠けものたちが街の風物詩的に存在した。

 そのころと比べると、いまは(首都バンコクにかぎるのだが)、街路に怠けものの姿が少なくなった。いわゆるホームレスや物乞いの姿はしばしば見かけるけれど、まだ充分に働ける年頃の男(たまに女)が、一日中、何もしないでいる姿はほとんど見なくなった。

 国が経済発展をしたことで、働かざるもの食うべからず、といった精神が人々の間に行き渡ったためであることは間違いない。

 キー・キァットの反対語は、カヤンというのだが、人々はこれを褒め言葉として使っている。熱心に物事をやっている人に向けて、カヤン・ナ(ナは関西弁の接尾語ナと似ている。勤勉やな、の意)というとき、昔よりはるかに肯定的な意味をもつようだ。

 食うべからずというのは、適切ではないかもしれない。持つべからず、といったほうが正しいか。金をもつ、いいものを持つ、とりわけ、バイク、さらには車をもつ(タイ人は非常にクルマが好きである)ためには、働くしかない。自分のことを、コン・キー・キァット(怠けもの)などといって笑っていられなくなったのが、80年代以降の現実なのである。

 実際、勤勉な人が飛躍的に増えたことは確かで、めったに休まない(年に数日か)商店がぼくの住む界隈にも何件かあって、ある意味では日本人より勤勉である。

 それでも、コーヒー屋の女主人は、キー・キァット、をよく使う。が、それは怠惰というほどではなく、面倒くさい、というくらいの意味だろうと、ぼくは思っている。怠惰(性格自体を表す)と面倒くさい(その場ごとの心の状態)、は日本語ではだいぶ語感が違うけれど、タイ語では同じキー・キァットである。

 この「面倒くさい」という性格については、だいぶ怠惰ではなくなった人々の間にも、未だ脈々と息づいている。
2013.05.27 / Top↑