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 そうした流れからすれば、日本各地へもその足跡を刻んだであろうこともただの推測ではなく、事実、「久米島」の名(那覇市西方約百キロ)や、「大来目部(おおくめべ)」(記紀神話の中の「大国主命(おおくにぬしのみこと)」が率いた集団)の名に、その他、さまざまな言語上の共通点などに、その痕跡をみることができる。

 縄文時代に大変革をもたらした稲作の渡来もまた、中国は揚子江河口域から伝来したといわれてきたが、まずは南西諸島へ、そこから黒潮に乗って、南九州や四国や紀州(和歌山)あたりに上陸した可能性のほかに、すぐれた稲作・農耕文明でもあったバーン・チアンからメコンを伝って南シナ海へ、そこから北上していったのではないか、といった仮説が成り立つかもしれない。日本人の祖先もまた、多くがそのルートでやって来たことを科学的証拠から否定できないとなれば、これまでの歴史や、形づくられてきた国の姿を、考え直す機会ともなるだろうか。

 バーン・チアン遺跡のようなものが出てくると、それを追求、研究することで、従来の文明圏論もまた塗り替えられてしまうかもしれない。世界最古というのは保留にされたが、本当のところはなお不明であることの意味は大きい。

 かつて大野晋(故)が日本語のタミール語源流説を唱えて物議をかもしたけれど(これを疑問とする側も確かな論拠をもち得なかった)、民族移動のルートからみても間違ってはいないはずだ。ぼくは、そのタミール語も加えた東南アジア源流(さらに遡ればメコンの源流・チベット高原東部)説を唱えたい。タイ語やクメール語は一部(チベット語やネパール語はほぼ全部)語順が日本語と同じであるし、単語にしてもよく似たものがいくらでもある。文法的には北方のアルタイ語族系といわれ、言語の生理学的成り立ちは南方系と指摘されてきたけれど、文法的にも南方系と共通項があることで、いよいよ濃いつながりを感じさせるのである。
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2013.12.02 / Top↑
 東南アジア地域が基本的には母系社会、女性優位の社会であることはよく言われるところだ。性比、という言葉があって(男と女の人口比率のこと)、タイでは、四・五対五・五くらいで女性のほうが多いと出ているが、街のようすをみてもそれはいえる。そして、オフィスでも市井の生活場面でも、優秀なのは女性であり、男性をはるかにしのいでいる。勉学の現場でもそれは明らかで、バンコクにある有名国立、私立大学では七割から九割を女性が占めている。

 その有様について、ぼくのタイ人の知友は、アンバランスでよくないというけれど、現実であるからしかたがあるまい。わが国を振り返れば、やはり女性のほうが優秀であり、就職試験などでは成績通りに採用すると女性ばかりになってしまうそうで、この国と似たところがある。

 ぼくの通うタイ語学校は、二十階建てビジネス・ビルの中にあるのだが、エレベーターに乗ってくる各社の社員は九割がたが女性で、これは驚くべき比率といわねばならない。男は一体どこで何をしているのだろう、と思いたくなるほどなのだ。
2013.12.16 / Top↑
 隣のカンボジアは完全な母系社会で、末の女の子が家督をつぐ。ために、男は家を追い出され、働いて婿入りの準備(つまり結納金に相当するものを用意)しなければならないのだが、タイも基本的には似たような習慣をもつ。

 従って、女性がよく働き、男性はそのおこぼれにあずかる、といえば言い過ぎかもしれないけれど、それに近い存在であるから、乱暴な言い方をすれば、タネウマである。タネを供したあとは、さっさと消えていく、どこかへ行ってしまう無責任な、というか、責任などという言葉も辞書にないような男が、これまた少なくない。

 従って、実質的シングル・マザーが多くなるのも道理なのだが、この男の側の自由というのは、ちょっと行き過ぎ、かぎりなく身勝手に近い気がする。などというのも勝手な見方で、これまた男と女の関係性、絶妙の双方向的距離感をもって自然の成り行きにまかせている、ということになるのかもしれないけれど。

 ところで、性的二形というのは、動物が雄と雌に分かれて、それぞれ色、形等の特徴を有することをいう。鳥類などでは雄のほうが美しく魅力的で、それは雌を惹きつけるためだといわれる(例えば極楽鳥などでは顕著だ)が、人間の場合は複雑で、ときに性転換という現象が起こることがある。

 これは生来のものと、成長過程における環境によるものとがあるようだが、一応男性の形状を備えながら精神的には女性、見た目は女性の形状を備えながらも精神的には男性になる二つのケースがあって、その姿かたちから内面の有様まで、非常に多岐にわたっている。

 いわゆる性同一性障害(GID)である。ここでは、精神的に女性になったケース(一般的な英語でいうと<レディボーイ>)を取り上げるが、タイではかなりの数にのぼる。知り合いのあるスウェーデン人は、現地のハイスクールで英語の臨時講師として雇われているのだが、ひとクラスに30名ほどいる男子生徒のうち、約一割がた、すでにその傾向があらわになった生徒がいるという。

 男でありながら、その物言い、仕種から、明らかにその兆候を現し、先生の彼にシナをつくって親しげに寄ってくる。それがひとクラスに三人ほどいるというのだから、これは少なくない確率である。
2013.12.23 / Top↑
 ぼくの住むアパートメントの近くにも、いまはリッパに成長したレディボーイが何人か住んでいて、そのうちの一人と知り合いである。行きつけのソムタム(パパイヤ・サラダ)屋で昼飯時によく一緒になる彼、いや彼女は、夜に出かけていくホスト、ではなくて、ホステスである。

 最初のころは、ぼくを誘惑しようと試みて、しきりにウインクを送っていたが、その気はないとわかってきっぱりとあきらめたらしく、ただ、たまにお茶などを飲む(カノジョがやっているコーヒー店を訪ねる)だけの仲となった。

 聞けば、その思春期、ハイスクールに入ったばかりのころ(日本でいう中学時代のはじめ)に、自分はジョセイであることをはっきりと自覚したという。

 さて、問題は、彼女たち(@、、、、)が、その社会でどのように暮らし、遇されているかだ。
 これについては、比較論になってしまうかもしれない。

 タイでもひと頃は、偏見をもってみる傾向があったようだ。産んだ親にしても、はじめは自分の子供がそういう女性になったことを気に病んだりもするようだが、そのことをいつまでも悩んでいたってしかたがない、なってしまったものをどうするわけにもいかない、というわけで、ぼくの知り合いの場合は、親のあきらめが早かったようだ。

 タイ人は概してあきらめが早い、というより、あきらめるのが上手な民族でもあるだろうか。次々と起こるこの世の悩ましいことを、まあいい、仕方がない(マイ・ペン・ライ)、と流していく能力たるや、たいしたものである。

 何かにつけてこだわる日本人からみると、いいかげん、ということになるのかもしれないが、いいかげんにすませられないことがしんどい人生を強いる一因であってみれば、一概にその良否を云々するわけにはいかない。 
2013.12.30 / Top↑

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