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 まさかという方は、この国にきて、実際に女性とデートの約束をされるといいだろうか。その日は調子よく、明日の逢瀬をオーケーしていても、次の日になると、気が変わってしまい、約束の場所へ足を運ばない。時間に遅れるどころではなく、いつまで待っても来ないために、(私の知友の経験だが)電話をかけてみると、しっかりと家にいて、どうして来ないのかと尋ねると、おもしろいテレビ番組があったので目が離せなかった、という。それなら、どうして電話をかけてこないのかと問えば、ごめんなさい、ともいわなかった、と。

 そんな調子であるから、ちょっと疲れているとか、気がすすまないといった理由で、アポを反故にすることなど日常茶飯であり、これにどまどう日本人男性の中には、自分はもてないのかと思ってしまう人もいる。それはとんでもない誤解であって、そういう人たちなのだということをまず知っておく必要がある。これをいいかげんといってしまうかどうか、こちらの常識で切って捨てるならば、とんでもない人たち、という結論になる。

 私の場合も、若いころはいろいろと約束をして、実に九割方はすっぽかしにあっているが、それに馴れてしまうと、約束をした時点で、たぶん来ないだろう、との予測ができて、やっぱり来なかったか、と笑ってすませたものだ。電話の一本もよこさないことについては、いくらなんでもそれくらいはやってもいいだろうと思うが、こちらでは通用しない。電話をかける気持ちがある人は、約束を守るほうに重きを置く人であって、本当に気分がわるくて歩けないとか、行きたいけれども行けない理由をもつ人にかぎられる。

 つまり、破ってもいい約束は平気で破る人たちであり、いわば約束の重要度というのをよくわきまえている、ともいえる。守らなくても大したことにはならない、破られた相手が非常な被害を受けることはない約束と、そうではないものを区別する、その能力たるや大したものだと思う。
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2014.03.15 / Top↑
 それは卑近な一例ながら、似たようなことがいくらでもある。そのような性質を身勝手としていましめる格言めいた言葉(ヤー・ヘンケー・トゥワ<利己的になるな>)もあるけれど、そういうものがあること自体、人々がいかにそうであるかを示している。

 しかし、身勝手な国民性、といって片付けてしまうと、事の本質がみえてこない。本当の我がまま勝手というのは、自分が勝手であるのはいいが、人がそうであるのは許せない、自分だけがよければよいというものだろう。約束に関していえば、自分が破るのは勝手だが、人に破られると頭にくる、といったもので、こういうのを本当の利己主義という。

 自分も勝手、相手も勝手、それを認め合うというのであれば、話はまた違ってくる。前述の例でいえば、もしこちらがちょっと体調が悪かったりして、電話をかけるのもおっくうで約束の場所に行かなかった場合、相手がめくじらを立てるかというと、そうではない。そう、わかった、マイ・ペン・ライ、ですんでしまう。大事な商談の約束などは別にして、さほどの利害に関わることでもなく、相手に大変な迷惑をかけることでもないかぎり、つまり、約束の重要度をそのつど計りにかけながら、人々は個人の自由意志のままに日々を過ごしている。

 個人主義とは、個と他者との双方向性をもち、かつ緩やかな社会規範の中でこそ成立するものだ。きびしい規則とこまかな制約の多い社会では、人々はそれに縛られて、何がなんでも約束は違えない、ルールは破らない、といったことを第一に考える。

 かつて、校則というもので生徒が死んでしまった例(遅刻を戒める遮断機にはさまれて、だったか)など、自由かつ寛容であるべき精神が阻害されている日本の学校はあまりに恐ろしすぎて、近年は、先生のノイローゼ(ドイツ語・神経症の意)、うつ病が少なくないと聞くが、どうしてそんなことになっているのか、その因をつきとめて改善に向うことができるのかどうか。わが国の将来がかかる大問題にちがいない。

 そういうわが国の状況とは逆に、約束は必ずしも守らなくてよい、ルールは破られる(しばしば変えられる)ためにある、といった柔らかさと大らかさを本質にもつ民族。そうでなければ、個人主義というのは成り立たない。わが国でそれが育たないのはどうしてだろう、とタイ陸からみると考えてしまうのだが、これも明治以降、さらには戦後社会(敗戦後に米国に服従するなど多種の因がある)が本来の性格を変質させてしまったからだろう、と思う。
2014.03.31 / Top↑

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