ヨーロッパでも、キリスト教という枠組みはあるけれど、かなり寛大で、許しを旨とする社会であり、上座部仏教の世界もそれと似たようなところがある。殺、盗、嘘、性的不義、飲酒等を非とする教えはあるが、それらを守れない人の洪水であり、こまごまとした戒律があるのは聖域なる僧集団のみである。教会の聖職者と民衆の関係もまたしかりだ。とくに、アジアのキリスト教国、フィリピンなどをみると、そのへんの緩やかさ、アバウトさは歴然としていて、同じ宗教を信じる欧米人でさえ、しばしばノイローゼになる。

 ただ、近代化の過程で、この国の人々も他に合わせようとする意志がはたらきだして、相手が日本人であったりすると、約束の時間に間に合わせようと努力する人も現れている。が、全体としてはやはり、マイペース、マイウェイの精神は、身についた原理、原則のようにある。そこから派生する自由への希求は、人が何としても生きていける社会のシクミをもたらす。道路交通法違反だからここでモノを売ってはいけないとか、声の大きな既得権者の味方をして警察が路傍の弁当売りを規制するとか、細かくいえばきりがない、わが国にはある不自由がここにはない。

 そのことがストレスを減じる大きな因であるとわかれば、日本人のストレスの因もまたみえてくる。その一つはまぎれもなく、さまざまな社会の規制と他者との人間関係であり、それに縛られ、気をつかいすぎることだ。日々、その気づかいが積もりつもって、知らぬ間にウツが発病したりもするのだろう。

 今夜もまた、部屋の外から大音響のカラオケが聞こえている。誰かの誕生パーティーのようだが、さぞかしうるさいはずの隣近所から苦情がいくことは決してない。いつかはこちらも同じ迷惑をかけるだろう、とわかっているからだ。迷惑をかけ合う社会、それをお互いに認め合う社会は、あれもダメ、これもダメといい合って、せせこましく、他人に遠慮しながら生きている人々の社会より、気楽で、住みやすい、といえるかもしれない。

 はじめて訪れた日本人は、あまりの大騒ぎに仰天して、あれで誰からも苦情がないなんて信じられない、と今にもノイローゼになりそうな様子であるが、ここまでハタ迷惑を考えない徹底ぶりは賞賛に値する。かえってさわやかで、呆れてモノがいえなくなって、静かに眠れるのである。
2014.04.07 / Top↑